事件の核心

事件の核心 (ハヤカワepi文庫―グレアム・グリーン・セレクション)

事件の核心 (ハヤカワepi文庫―グレアム・グリーン・セレクション)

グレアム・グリーンは、カトリックという宗教を憎んでいるのではないかとさえ感じる。
今はほとんどの日本人が西欧に対するコンプレックスを持っていないと思う。もし持っていたとしても、一般常識として共有してはいないはずだ。
だから、今は彼らを縛っている宗教の呪縛を相対化して見ることが出来る。
キリスト教に根拠のないコンプレックスを抱いていては、ここに書かれていることが何事か分からなくなってしまう。

私たちは、絶対に変化しないものさしだけを、信じられるものさしと思っているが、現実には、変化するものさしのほうが圧倒的に多い。
こどもの頃に学んだ数式を、個々の現実に当てはまるように、どんどん複雑にしていくと、最後にグレアム・グリーンの小説になるのではないか。それほど描写の精確さに呵責容赦がない。
前に読んだ『ヒューマンファクター』につづいて、今回も主人公は犯罪者だ。しかも、ルパン三世とかランボーとかの、すっきり系ではない。
『ヒューマンファクター』では、共産国に国を売った二重スパイであり、今回は、戦争中に植民地で賄賂を受け取っている汚職警官である、が、読み進むうちに、結局彼らに共感してしまうし、さらにいえば、普段はうっかり信じ込んでいる自分の日常生活が、ずいぶん不確かなものに見えてくる。
いろんな人がいろんなことを愛と名付けて呼んでいるけれど、それらは実感として確かにあっても、実体として存在を確信できないものであり、その上、必ず他者を必要としている点で厄介なのである。
免疫的に自己の内部に他者を受け入れることは、そこに死の影を必ず宿しているし、他に対しては罪のリスクを負っている。
宗教が神への愛だけを愛と呼べというのも無理はない。もし,愛が永遠だなどと大それたことを思いたければそうするしかないということである。
私には、神への愛は自己愛に過ぎないと見えるけれどどうだろうか。
そして、浅学非才な読者は、情けないことに題辞に戻るのだろうか。
「罪人はキリスト教の核心にいる・・・
罪人ほど教える力を持つものはいない。
聖者をのぞいては。
            ーーーペギー」
序文の最初にこうある。

イーヴリン・ウォーがあるとき書いて寄こした手紙の中に、自作『ブライヅヘッド再訪』のために言いわけさせてもらえる点があるとすれば、それは「豚肉の缶詰と、灯火管制と、プレハブ住宅」だ、とあった。私も『事件の核心』にたいしてほとんど同じような気持ちを抱いている、もっとも私の言いわけはちがうものであるーーー「沼地と、雨と、マッドコック」−−−つまり、私たちの二つの大戦はひじょうにちがっていたのである。

この「いいわけ」とは、つまり、さすがに、カトリック色が出すぎているということなのだろう。