かもめの日

かもめの日

かもめの日

古色蒼然としたカソリシズムの世界から、一夜にして現代に吹き飛ばされた。しかし、その現代の空の上には、なぜか、テレシコワを乗せたヴォストークが飛んでいる。テレシコワは地球を回る軌道の上から「わたしはかもめ」という言葉を電波にのせて送った。
電波にのせて送られてきた世界初の女性宇宙飛行士の言葉が、チェーホフのヒロインの台詞と同じであることは、企図されたかもしれない以上の意味を含みうる。ありとあらゆる意味を含みえたわけだった。
この小説の叙述は、ある日の日の出から次の日の日の出までの時間に厳密に限定されている。すべての登場人物(ざっと十人かそこら)にとって、とりたてていつもと変わらない一日かもしれない。そして、彼らは、自分たちがどういう風にかかわりあっているのか、最初から最後まで知らない。読者だけがそれを知りうる。
しかし、読者の視点は、神の視点ほど高くならない。そこに善悪の判断が入り込むには、あまりにもすべての人物に目が配られている。過剰な感情移入はない。ほんの一日、夜明けから夜明けまでの間、ヴォストークの高みから見下ろしてみたというような感じなのだ。
小説の中に、多摩川の土手の描写があるが、作者が同志社大学出身のせいか、わたしは加茂川のゆりかもめを思い出した。だんだん沈んでいく夕日の最後の名残りを腹に受けて、高く群れ飛んでいたものだった。
ヴォストークの高みから見ると、時間と空間の境は、少し曖昧になるのかもしれない。この本の中には、この地球の、ある一昼夜が切り取られて、はさみこまれている。