男はつらいよ

「僕が面白いと思う映画って、隣りのお兄ちゃんも面白いって思ってる映画だったし。そういうとこで勝負したいなと。監督像とかは特にないけど、自分の名前でワクワク期待してもらえる存在になれたら理想だし夢ですね」
プレイボーイに載っている内田けんじのインタビューから無断掲載。
今日も、『アフタースクール』の話題。
運命じゃない人』の公式サイトで、インタビュアーに
タランティーノを想起する観客もいると思いますが・・・」
と、ふられて
「もちろん好きですけど、むしろ意識したのは『男はつらいよ』」
と答えていた人である。
そういわれて、改めて思い返してみると、『アフタースクール』で「二枚目でミステリアスな存在として物語を引っ張っていく木村役」の堺雅人は、寅さんのDNAを引き継いでいる。ポルシェに乗って颯爽と出かける姿を見て
「こいつが寅さんだ」
とは、とても思わないが、思わないからこそ、映画を観終えて最初のシーンまで記憶を遡っていくと、とてつもなくおかしい。
「"情報”がテーマなんです」
と、インタビューにもある。ある情報を持っているかいないかで、一つの画面がまるで違って見える。映画を観終えた前と後では、たとえば、最初の朝食のシーンなど、まるで3DCGの隠された絵が見えたような感じさえする。目に入る情報は変わっていない。頭に入ってくる情報が変わったのである。
私のおぼろげな記憶では、伊丹十三は、「対立する価値観の人格化」が重要だといっていた。
この映画で、そういう意味で価値観の対立を体現しているキャラクターは、大泉洋佐々木蔵之介だろう。
しかし、隠されたテーマは、むしろ、堺雅人の木村にある。そして、それが実は「寅さん」で、しかも二枚目というのが、この映画の魅力のひとつだろう。
「構成が複雑で交錯しているからじゃなく、シンプルでも素晴らしい脚本はすべて計算し尽くされていて、最後に集約されるカタルシスに共感して興奮するんだと思う」
「計算」ということでいえば、各シーンに少しずつ、多分意図的に、違和感のあるイメージや台詞が割り込んでいた。
たとえば、さっきの朝食のシーンでは、
「何でここに親父がいるんだ?」
と、私の脳はふと思った。
男はつらいよ』は、コメディ映画の、もはや古典であるが、これについて思い出してしまうのが、『大日本人』監督、松本人志
「『寅さん』を観て面白いと思ったことは一度もない」
と発言していたことである。その感性の尖り方は理解できるが、おそらく、作品全体が見えていない。
関西人として、やはり思い出してしまうのは、やしきたかじん
タモリなんかおもろいと思うたことない」
といって、東京に出ていって、山田邦子にいじめられて、泣いて帰って来たこと。
一般に支持されているものをあなたが認められないとき、あなたの感性が傑出している場合と、あなたの理解力が浅薄である場合の、二つの可能性があると認識しているべきである。
ビートたけしは、
「世界に認められているものはよいものだ」
と、松本人志を励ましたが、しかし、観客に支持されない映画がよい映画といえるだろうか。たとえば、レナール藤田の場合、画壇から白眼視されたが、絵は高値で売れ、展覧会は盛況だった。
ビートたけしの映画は、観客に支持されているだろうか。
大日本人』と『監督ばんざい』が、ほぼ同時に公開されたとき、ムービーウォーカーの一般観客の評価で、『大日本人』は五段階の5と1にまっぷたつに別れているのに対して、『監督ばんざい』は、4,3,2にばらついていた。
つまり、『大日本人』は、大嫌いな客もいる一方で、大好きな客もいる。
ビートたけしという人の中に、誰かに伝えたいものがあるのかどうか私はすこし疑問に思っている。