言葉の母胎

子供のころからいろいろな地方を転々として暮らしてきたものにとって、一番コンスタントに接している話し言葉がテレビになるのは自然なことだが、そのせいで、方言という言葉の母胎を喪失してしまったことは、以前にも書いた。
それでも、長じて最も親しんだ言葉は関西弁なのだから、傍目に見れば関西人といってもいいはずである。
だが、私はふだんほとんど関西弁を話さない。関西を離れてもう久しいので、結局地金がでてしまう。つまり、NHKのアナウンサーが、ばれないように駅の構内放送をやっているような、棒よみの標準語である。
間違っても「重複」を「じゅうふく」と言ったり、「入水」を「にゅうすい」と言ったりはしない。
この言葉、若いときはまだよかったが、年をとるにつれ変妙さが際立ってきた。社会性が希薄な私には、年下に対する言葉がない。
ところが、最近、奇妙なことに気がついた。そういう言葉であっても、長く使っているうちに、ぞんざいであったり、丁寧であったり、冷淡であったり、親しみがあったり、いろいろな違いが自然にでてきている。言葉が社会性をもってきている。
その言葉が私のパーソナリティーと呼ばれるものそのものなんだろう。それは一人でいるときの私とは随分違う顔をしているが、これが他人様にとっての私なんだなぁと、他人事のように感心している。