素人としては

諫早湾干拓をめぐって、またぞろなにやら茶番が演じられているようだ。
新聞の記事では、

小長井町漁協の新宮隆喜組合長は「開門しても有明海の再生にはほとんど効果はない」などと話した。

だそうだが、「再生」というからには、「死んでいる」ということについては異論がないわけだ。
あの事業の前にももちろん環境アセスメントが行なわれて、政府御用達の学者が、環境にはほとんど何の影響も出ないだろうという「調査結果」を発表していた。
素人としては、「そんなわけないやろ?」と突っ込んでいたのだが、結果は、反対派も認める死の海なわけだ。その部分の明らかな過誤は、「一旦おいといて」上記の発言をするわけで、する方もするほうだが、それに耳を傾けるほうもどうかしている。
「科学的迷信のほとんどは科学者が発信する」と、福岡伸一が言っていたが、今回のことに関しては、迷信というより、嘘の上塗りにすぎないか。
今週の週刊文春の「私の読書日記」は池澤夏樹の担当。『プレートテクトニクスの拒絶と受容ー戦後日本の地球科学史』という本を紹介している。
大学生をやっていた頃、いわゆる「パンキョウ」一般教養で、地質学だかなんだかそういうのを受講していたことがある。そのとき(1979年)の担当教授はプレートテクトニクスを否定していた。私は文学部の学生だったが、プレートテクトニクスは常識だと思っていたので、学問の世界の一端をうかがい知る思いだった。
70年代初めに、欧米ではすでに主流になっていたプレートテクトニクスが、何故日本では長く受け入れられなかったのかについて、この本に詳しいそうである。特に興味もないので、読む気はないが、しかし、ほぼ想像の範囲内だろう。
学者の世界に限らず、みんなが内心「間違ってる」と思いながら、間違っている方向に走っていくのが、近代日本人の一大特徴をなしている。取り返しのつかなくなった後で、みんなが「実は、間違っていると思ってました」と言うのである。
同じ週刊文春でいうと、2006年、「不都合な真実」という映画が公開されるや、「地球温暖化なんて嘘だ」というネガティブキャンペーンの陣が張られたことを記憶している人も多いだろう。それとも、私の記憶違いだろうか。宮崎哲弥の仏頂面日記を読むと、トーンダウンというものの実例にふれることが出来るだろう。
地球温暖化については、書評欄に『鉄が地球温暖化を防ぐ』も紹介されている。著者は気仙沼湾で親の代から牡蠣やホタテの養殖業を営んできた畠山重篤という人で、湾に注ぐ川の上流に森を育てる活動を始め、今は、鉄と炭を混ぜ込んで焼いた「鉄炭ダンゴ」で、磯焼けや汚染された海域をよみがえらせる活動をしている。
テレビ受けする言葉と、現場で役に立つ言葉は、それなりに違うのだろう。現場から発せられる言葉の重みについて、あらためて考えさせらる。現場にいることが、何より大事なのだ。
現場からの言葉は、もし100年後に間違いが証明されたとしても、テレビのコメンテーターの言葉より意味がある。というより、現場の言葉しか意味がないのだ。もし、宮崎哲弥の言葉が正しかったとして、それがどうした?ただ、テレビでコメントしているだけの言葉が正しいからといって、だから何?