必需品

近所のガソリンスタンドではレギュラー186円。
5月に大前研一のメルマガを紹介した中に、ガソリン価格が170円を超えても車を所有する人は47%、200円を越えると14%に減るという調査結果があった。今はその中間点くらい。
それで思ったのだけれど、クルマは煙草に似ている。
若いころに粋がってやり始めて、そのまま惰性で続けている。費用のほとんどが税金なのもよく似ている。
上の調査結果は、必需品としてのクルマの需要が14%まで絞り込めることを意味しているが、日本が、必需品としてのクルマしか走っていない社会になるころには、多分、煙草も配給制になっているだろう。それでも暫定税率は廃止されていないだろうが。
先日の雀三郎の独演会は、思い返してみると、東京での落語会というものの初体験でもあった。
先入観があるせいかもしれないが、少しいやな客がいたことも確かである。会場にいらした方はご存知だろうが、柳家喜多八の話の途中で、私の前に座っていた男がケータイを取り出して、ピポパをやり始めた。あれは申し訳ないけれども、他では経験したことがない。
それは、個人的なことか知れないが、そういうことを抜きにしても上方の落語会の方が、もっと明るくて気さくな感じがする。
気のせいかもしれないが、と思いつつ、昨日は古今亭志ん朝の「世の中ついでに生きてたい」という対談集を引っ張り出して、ぱらぱらめくったりしていた。
週刊文春に連載している堀井憲一郎が落語好きで、ときどき落語の話になる。その中に、「落語ってむずかしくないですか」と聞かれるときがあるというくだりがあって、どうも腑に落ちない思いがしていた。関西では、まあ聞かない文言だ。
しかし、今回の体験でその一端を覗き見た気がした。要するに、むずかしく聞きたがる客がいるということだろう。
こういう経験をすると、関西人としては、ちょっと「トーキョー」をさげすみたい気持ちが起きてしまう。一度の経験でこういうことをいうのも軽率のそしりをまぬかれないが、文化の程度は大丈夫なのかな、とおもいつつ、志ん朝の対談集をめくっていたわけだ。
最近の客についての苦言めいた箇所をみつけたが、わざわざひくこともないか。
池田で米朝志ん朝二人会を聞いたときのことを楽しく思いだす。
とにかく、志ん朝吉朝は早く死にすぎた。雀三郎の言葉ではないけれど、これからだったのである。