ぐるりのこと。

京急という少ししっとりした感じの電車で日の出町に行き、横浜シネマリンで「ぐるりのこと。」を観てきた。
新井浩文の、無言の唇の動きから始まる数分間のシーンは、どんな観客にも息を呑む隙すら与えないだろう。
映画が、一人の子供の不在で始まり、別の一人の子供の不在で閉じられることに気づくべきだ。
どちらの子の写真一枚さえ登場しない。観客が登場人物と共有する、その子たちの不在が、そのシーンへと堰を切って流れ込む。
すべてが虚無かもしれない。優しさだけでなく、憎しみや悲しみさえも偽りかもしれない。
しかし、だからこそ人は悲しまなくてはならない。
虚無が決定的だからこそ、それと同じくらい空疎な感情のカタチが必要なのだ。ありふれた悲しみのカタチだからこそ、人の心に入り込むのである。
絵が重要なテーマになっている。
美大卒の男女が出来ちゃった結婚をする。女は出版社に勤め、男は、結婚を期に法廷画家のキャリアをスタートさせた。
妻は「女で苦労するのはわかってるの。でも、私がちゃんとしていれば大丈夫」と、女友達と軽口を飛ばしていた。
しかし、一年後、夫婦の間にあったのは、子供の姿ではなく真新しい位牌だった。
やがて、仕事を辞めて心療内科に通うようになっている妻が、台風の夜、ベランダに向いた窓に腰掛けて、尋ねても仕方のないことを夫に問う。
虚無に耐え切れない。悲しみが足りない。悲しむことさえちゃんとできない。
しかし、夫は慰めを言わない。人の心は分からないのだというだけである。
絵の物語でもある。
子供は写真すら登場しないと書いたが、主人公が描いたその子のスケッチが一枚。
そして、妻が庵主様に請われて描いた寺の天井画、心の恢復と共に描かれたたくさんの花の絵。
主人公が描いた妻の父の絵。
これら三枚の絵が、実は物語のすべてでもある。
そしていうまでもなく、おびただしい法廷画の数々。
エンドロールに映し出されるそれらの絵が、感情のうつわになって観客を受け止めてくれるだろう。
リリー・フランキーがあんなに演技が達者だとは知らなかった。
オススメ。