エロティシズム

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

しばらくこの本にかかりきりになっていた。
若いころに、死とは何かとかいう問題に頭を悩ませて、ワケがわからなくなった人間には腑に落ちる論理である。
宗教のほとんどがどういうわけかセックスを斥けているように見える。これがとてつもない矛盾であることは、人間が生まれてくる仕組みについて詳しい人にはすぐにわかることだ。
だから、セックスと宗教が対立している構造を語りうる視点に立つことは重要であるはずだ。
しかしながら、哲学が、セックスについて、というか、エロティシズムについて、つまり、エッチなこと、少年がどきどきするようなこと、哲学に目覚めるより先に目覚めていたようなこと、について思索をめぐらすことは何千年もの間たえてなかった。エロティシズムに思索をめぐらすのは哲学者ではなかったのだ。
宗教についても事情はそんなに変わらない。キリスト教徒がキリスト教について予断なく眺められるようになるにも随分長い時間を要したと思える。
これには多分、私たち日本人が貢献しているのだ。仏教徒が槍や毒矢ではなく、飛行機に乗って突っ込んできて初めて、キリスト教徒は彼らの宗教を相対視できるようになったのである。まぁ、これは私見。
聖性の呪縛にとらわれてきたのは、キリスト教徒だけではないと思うが、彼らはキリスト教程度の宗教を、哲学や科学どころか世界のありとあらゆるものの上部構造だと、これといった根拠もなく信じてきた。
ダーウィンが進化論を世に問うた時の苦労など、多分我々には実感できないものなのだ。
だが、そういう圧倒的でほとんど自明とされている禁忌があったからこそ、このバタイユの明晰な思索が生まれたともいえるだろう。
哲学がラテン語の教養のような古色蒼然としたものにならないためには、セックスと死と宗教を視野に入れることが必要だが、たしかに簡単なことではない。というのは、それらを科学的に観察しようとして、私たちの外側に取り出すと、エロティシズムは消えてしまうからだ。

現代の日本の状況についても、示唆的な言葉をいくつも見つけることが出来る。私のような断章主義者はついつい部分を拾い集めたくなってしまう。たとえば、サドが「無感動(アパシー)」について語っている言葉などひどく刺激的だ。一見、最近の理解しがたい犯罪を説明しているように見えるからだ。だが、そういってしまうのは、多分扇動的な態度にすぎないだろう。
エロティシズムについてもさまざまな言葉で語られたいるが、「要するにエロティシズムとは意識的な存在の性活動なのだ。」というのが私には解りやすかった。序章にある「エロティシズムとは死におけるまで生を称えることだ」とあるのが、意味としてより包括的なのかもしれない。

近親婚の謎の章を読んで、フェミニズムの失敗(失敗だったとしてだが)は、エロティシズムの視点を持たなかったからだと思えてきた。性差について語ることは、セックスについて語ることにほかならなかったのに、フェミニストもやはり、エロティシズムを直視しなかったのではないかと思う。
こういう書き方をしていくと、取り留めなくなってしまうし、余計な誤解を与えることになるだろうから、この辺で擱筆したい。訳者があとがきでいうように性急に浅薄な結論に飛びつくのは避けるべきだろう。よい本の読後感には熟成が必要だ。
この書が宗教を語りつくしているとはもちろん思わないが、しかし、不連続性と連続性の議論について、なぜ不連続性が永遠を獲得できると一瞬でも考えられただろうかと不思議に思う。私が自己を認識する個体として生まれてきたことには、その最初にまず死が予定されている。だから私に限らず、不連続な任意のどの個体も永遠には存在しない。確かにバタイユの言うように、これは自然の驚くべき浪費にすぎなかった。