復活

昨日の話に仏教徒の立場から一言付け加えておくと、バタイユ自身も「仏教は神の概念無しで済ましている」と言っているが、それに加えて仏教には霊魂の概念もない。僧侶のくせに悪霊だの除霊だのといっている輩はそれ自体でニセモノだとわかる。仏教の輪廻転生の考え方はキリスト教徒とはかなりちがう。
キリスト教では、復活するときに肉体コミで、しかも地上に復活することになっているので、あまりたくさん恩寵に預かってしまうと、随分手狭になってしまうはずなのである。その意味で、キリスト教は本質的に選民思想にすぎない。別に否定する必要もないだろう。「狭き門より入れ」というからには、広い門から入って残念な結果になる連中を想定しているのに間違いない。
そのことがキリスト教を強くしている。「牛を食え、鯨は食うな」ということに理由はない。われわれは鯨を食うことで、彼らの楽園を少し広くするのに協力している。鯨を食う連中は彼らの楽園には入れない。つまり、彼らにとっては人間のうちに入らないのだ。
しかし、そうやって選別していっても、有史以来の善男善女が肉体コミで復活して、はたして人口爆発は起きないのかという問題はあると思う。解決の方法としては二つしか思いつかない。よほどのスーパー善男善女だけ復活するか、誰も復活しないか。
バタイユの連続性、不連続性という言葉を私なりに解釈すれば、生は無限に増殖する一瞬の不連続性であり、死は唯一の永遠な連続性である。それを全体としてみれば、自然の目も眩むほどの無目的な浪費だ。浪費だというのは、もちろん、私たちの自分のちっぽけな生を有用だとしての話。そしてもちろん有用なのだ、どの程度にかは問わないとして。
自我が芽生え始めたばかりの若いころは、死が随分理不尽に思えるものだろう。自我こそは、全知全能の可能性を秘め、無から有を創造し、愛をもって誰かと永遠に結びつくべきはずのものであるからだ。
しかし、だんだん年をとってくると、そうでもないということに気がつく。「生まれてきたからには、そりゃ死ぬわな」くらいなことである。いずれ死ぬにせよ、豊かさは生の属性である。加齢につれて生と死は対立概念でなくなる。
ただ、どちらの考え方が正しいのか、その判断は難しいところだと思っている。