処女懐胎

knockeye2008-09-05

学生時代に先輩と、マリアの処女懐胎について議論したことがある。
私としては、もし科学的に処女懐胎がありうるとしても、神の子だからといって処女から生まれなくてもよさそうなものだと思う。
週刊文春の連載記事、竹内久美子の「ドコバラ!」にこの長年の疑問に関する面白い記事を見つけた。
それによると、ヘブライ語の聖書には処女懐胎の記述はなかったのを、学者たちがギリシャ語に翻訳するとき、処女が身ごもったことにしてしまったらしい。出典として『七十人訳聖書』という本があげられている。
リチャード・ドーキンスという人がこう言っているそうだ。

「見よ、処女ははらみ男児を産まん・・・」という予言を付け加えたとき、彼らはあるたいへんなことをスタートさせたといえると思う(『利己的な遺伝子』)

やらかしちゃったわけだ。
しかし、処女懐胎伝説は世界各地にあるそうだ。
人間が生まれる仕組みについて詳しい方には周知であろうが、処女が身ごもるはずはないわけだから、このことの背景にはバタイユのいう「侵犯」によって生まれた子の意味があるのだろう。バタイユによれば「侵犯」は聖なる領域に属していたわけだから、そういう生まれ方をした子供が神の子にふさわしいイメージだったのだろう。だが、キリスト教が成立するころには、「侵犯」と「聖」の結びつきが希薄になってきていた。で、聖書がギリシャ語に翻訳されるときに「たいへんなこと」をやらかしたわけだった。
しかし、処女をありがたがるその意味には、「侵犯」と「聖」が結びついていたころの名残りがある。これは、キリスト教に残っている奇妙なしっぽなのだろう。
ちなみに万が一単為生殖が起こったとしても、性染色体の状態から考えて、男が生まれる可能性はないそうだ。