グーグーだって猫である その3

ぴあの今週号に、小泉今日子のインタビューが載っている。
一昨年、急逝した演出家久世光彦からもらった手紙に
「最近は文章でも演技でも、びっくりするくらい巧くなってきました。ただこれ以上巧くなってはいけません。巧さの先には、あまり広い世界はありません」
と書かれてあったそうだ。
やましい思いが芽生えたときはいつも、この言葉が
「降りてきます」
と語っている。
その誠実さが、主人公「麻子」そのもののようにも思える。
恋愛に対する不器用さ、というより忌避感は、裏返せば自意識の強さでもある。どこかで自我の垣根を緩めておかなければ、恋愛が作動しない。
加瀬亮演じる「青自」に抱く思いや、かつての編集者「近藤」との間にほのめかされている関係の純情可憐さ。

「麻子」が自我の垣根をわずかに下げることが出来るのは、不思議な出会いをした「サバ」という猫だけだった。夜の井の頭公園の橋を渡っていく幻想的なシーンは、この映画の白眉だろう。
ふたたびインタビュー記事。
「孤独であることを前提に生きたら、たぶん負けないんだと思う。
(略)
グーグーだって猫である』も『トウキョウソナタ』も孤独を寂しいものとして否定的には描いていないんですよね。
(略)
40代の女性がこんな風に現実のなかに居られる映画が出来るというのは、すごく嬉しかったですね。」
昨日、主人公「麻子」が富山出身である寓意についてちょっと考えてみたけれど、上野樹里演ずる「なおみ」が関西出身であることの寓意についてはまだ書かなかった。
しかし、関西のイメージは、富山よりはるかに一般に流布しているだろう。関西人としては、そのパブリックイメージに迷惑するくらいである。
「なおみ」はまるで浪花節だ。ストレートで熱く、男に媚びない。「麻子」の入院する病院から出てきたあと、「まもる」に手を振る表情は、男が思わず「負けた」と思うほど美しい。
旅立っていく「なおみ」を見送る「麻子」。二人とも孤独を選んだのだろうか。そうではないだろう。自分であることを選ぶときに孤独を懼れなかった。きっとそのことをふたり確認しあったのだろう。