秋野不矩

knockeye2008-09-21

昨日リストアップした展覧会のうち、一番交通の便の悪い葉山の「秋野不矩展」に出かけた。
台風一過というと、普通、晴れるものなのである。
今朝少し雨が残っているなと思ったけれど、そのうち晴れるのだろうと油断していたら、終日激しい雨が止むかと見せては降り続いた。
こういう日に一番遠方に出かけたのは馬鹿げていた。逗子駅から更にバスにゆられて「三ヶ丘」というバス停まで、20分ほどもかかったろうか。そのバスの車窓にいよいよ雨が激しくなった。美術館の前の低い山の頂まで、霧に隠れて見えなかった。
秋野不矩という画家が女性だとは知らなかったが、この画家の「紅裳」という絵は、まだ京都に住んでいた20代の頃観たことがある。それも私にはめずらしいことに、女性とふたりで観たのである。今日、久しぶりにその絵に再会したのだけれど、そういう個人的な記憶は抜きにしても、たおやかな華やぎが伝わってくる。

この絵は、しかし、画家の初期のころの絵であるらしい。五人の若い女性が、それぞれに意匠の違う紅い着物に身を包んでテーブルを囲んでいる絵だ。同じように和装の女性を描いた「姉妹」という絵もある。こちらは朝顔のような紫の着物を着て少し膝を崩している二人の女性。そのデッサンも展示されていたが、女性の額、肩、腰、膝、デッサンの時点ですでに息づくようで、並々ならぬ画力をしのばせる。
戦後インドに出会って、絵のスケールが大きくなる。スケールというよりボリュームというべきだろうか。インドには客員教授として招かれたのだが、「インドについては何も知らなかったが、インドに行くと描きたいものがちゃんとあった。」と後に語っている。
「紅裳」や「姉妹」に見られる細やかな色彩感覚が、目も眩む日光にさらされる黄土の微妙な色調を見事に捉えて、黄土に日光が織り成す光と影。そこに息づく人と、そして牛。
今回のポスターにも使われている「ヴィシュヌプール寺院」や、「中庭の祈り」。そして「帰牛」「渡河」「ガンガー」に繰り返される川を渡る牛の絵。
これら黒く精悍な牛は、激しい日の光のもと、生命をむき出しにしてなまめかしい。
ああ、そうだな。私は黒が美しい画家が好きなんだな、やっぱり。私にとって、秋野不矩の黒い牛は、ベルナール・ビュッフェの黒い線に匹敵する。90歳を越えてもインドやアフリカに出かけていたそうである。
美術館を出て、逗子駅前の「ぼんごーれ」という店でスパゲティとブルスケッタを食べたころには、雨が少し小止みになっていた。さてどうしようか。鎌倉まで一駅、150円。かばんの中にDP−1。というわけで、鎌倉駅に降り立ってみたわけである。ほんとを言うと、今日この展覧会を選んだのは、鎌倉の彼岸花がそろそろ見ごろだろうなという読みがあった。しかし、この雨。
とかいいながら、結局歩き出していた。

この選択が正しかったかどうかは靴に聞いてほしい。
↓DP−1の作例はスライドショーで。

ところで、こないだ読んだ『R25』に「モカが市場から消えるかも」と書いてあったが、今日のところ、いつもレギュラーコーヒーを買う店頭からは消えていた。