中庭の出来事

中庭の出来事

中庭の出来事

先日アップした池口史子の絵は「中庭」とという題。絵葉書がなかったのでポスターを買った。
恩田陸は読む楽しみを提供することを至上命題としているようだ。あるいは、強迫観念か。
複雑な入れ子構造は、ミルフィーユなみである。初出は新潮ケータイ文庫。ということは、近頃世情をにぎわすケータイ小説なわけだ。しかし、この複雑な構造は案外ネットに書かれたからこそなのかもしれない。
ネットの文章と紙の文章の大きな違いはハイパーリンクだ。
たとえば、『中庭の出来事』は長編小説で、短編集ではないのだから、よほどの偏屈でない限り最初から順を追って読んでいくはずだ。
しかしネットでの文章は「中庭」という単語にハイパーリンクが張られていたら、ある読者はそこから他の文章に飛んでいってしまうかもしれない。そして池口史子の絵にたどりついてしまうかもしれない。
これはもちろんウェブ全体にリンクが張り巡らされている場合の例だが、一つの長編小説の中に限定して、リンクからリンクへとアットランダムに章をたどって読んでいっても、最終的には全体像が浮かび上がるという小説も、実は可能ではないのかと考えたりする。そしてけっこう楽しいのではないかと。
たとえば、「源氏物語」はどうなんだろう。長編小説でありながら、もう古くからそういう読み方がされてきたのではないか。
「中庭にて」、「中庭の出来事」、「旅人たち」、の三つの章が入れ替わり立ち代り現れる『中庭の出来事』は、そんな読み方が可能なのではないかと思えるし、ケータイで連載されているリアルタイムではきっとそんな読み方がされていたはずだ。
もちろん本でもそういう読み方は可能だ。だが、ネットではそういう読み方のほうがむしろ普通。つまり普通にしていて今までにない体験ができているということ。
だからネットでの小説は、紙に書かれた小説とは違う構造になりうるのではないかと期待している部分もある。
 元々は、『中庭の出来事』は、お芝居を題材にするというよりも、「虚構」についての話のつもりだったんです。お芝居というのは、ライブなのに、目の前で虚構が演じられる。すぐそこに現実があるのに、同じ空気の中でフィクションが進行する。お客もその共同幻想にあえて能動的につきあう。それって凄く不思議な空間だと思って、その虚実の不思議さを書きたいと思った。だから、確かにお芝居が題材なんだけれども、お芝居の小説を書いたという意識はなかったです。
――そんな魅力が存分に詰まった最新刊『中庭の出来事』。最後に読者の方に一言お願いします。


 この複雑な話をケータイ文庫で読んでくださった方、あなたは偉いです(笑)。でも、まとめて本で読むと別の味わいがあるかと思います。もちろん初めてお読みになる方も。とにかく、謎が肥大しスパイラルしていく過程をクラクラしながら楽しんでいただければ嬉しいです。

ネットはともかくケータイ向きであったかどうかは保証の限りではない。少なくとも、視力とメモリーに相当な負担をかけるだろう。