派遣の問題

派遣社員の雇用問題が深刻になっている。
私自身もつい数年前まで派遣社員だった。私の派遣歴は長い。何しろ、私がフリーターになったころには、まだフリーターという言葉がなかったし、私が派遣社員になったころは、その存在が合法であるかどうかあやしかった。
そういう状況なので、私自身は好き好んで派遣社員をやっている意識だった。ほとんど隠遁のこころざしで、派遣社員でいることは社会に背を向けていることだと自他共に認めていた。
昨日テレビを見ていると、突然派遣の契約を打ち切られ、寮を追い出された若い人が、真冬の苫小牧に放り出されて
「人間扱いしてくれているのか・・・」
とつぶやいていたが、それは、はっきり人間扱いしていないのである。気がつけ。
そもそも派遣社員だろうが、正社員だろうが、企業が人を人間扱いしたことが過去に一度でもあったのか疑わしい。
私が派遣社員を始めたころは、その存在が合法か違法かはっきりしなかったと書いたけれど、雇われるこっちとしてもそんなことは知ったことじゃなかった。一日のうちの何時間かを企業に切り売りする。役に立たなければ首が切られる。役に立っても事業が縮小すれば放り出される。分かりやすくていっそ気持ちがいいと思っていた。
ちょっと話題にしたことがある今の同僚は、ミス、遅刻、手抜き、居眠り、勤務中の飲酒、にもかかわらず16年間正規雇用として働いている。
私の二年後に同じルートを通ってロシアからアフリカを縦断した(私はロシアのみ)tenkoさんは、京都大学の卒業生だ。英語もぺらぺらで、私は見送りに行ったとき、うっかり片言の英語で通訳しようとして恥を掻いた。
ほんとうは単位を少し残しておくつもりだったのに、間違えて卒業してしまい、新卒者でなくなってしまったために、就職のとき、とても苦労したそうなのだ。
それでは経営者は「ナニ」を見ているのだろうか。彼らにとって雇用するということは何なのか。

中学、高校、大学と続くあの期間で私たちはそもそも何を学んでいるだろうか。これを知らない人はいない。学んでいることはただひとつ、受験技術である。したがって大学は何かを学ぶところではなく、ウイニングランに過ぎない。
学生にとって企業はブランドにすぎず、企業にとっても大学はブランドに過ぎない。現実社会と教育とは完全に断絶している。
ただひとつ共有しているものがあるとすれば、それはいじめだ。丸山真男のいう「抑圧の移譲」。つまり、上の言うことには逆らわない、周りの空気にあわせる、そのことだけが教育現場と現実社会を結んでいるたった一つの原理である。
派遣社員という働き方は、いつの間にか合法的になり、公認の存在になったが、非正規雇用を増やして正規雇用を減らしてきた企業の本音は、できることなら正規雇用者もモノのように使い捨てたいということである。

ほんとうは、企業にとって、雇用者は同時に顧客でもある。顧客に対する態度と雇用者に対する態度は同じでなければならないはずだ。
言い換えれば、企業が相手にしているのは人であり、人に対する姿勢は、その社会的存在意義を規定している。
しかし、日本の企業はその利益のほとんどを外需に依存してきたために社会的存在になりえていない。
非正規雇用に走った企業は、若いときの私と同じく、社会に背を向けようとしていると思う。
派遣の問題は、実は企業の社会的存在としてのあり方の問題なのだし、さらに言えば、問われているのは私たちの社会の質なのだ。
その意味で、派遣切りと、偽装米やリコール隠しは同じ行為なのである。
自国民をモノのように使い捨て、外国の顧客にこびへつらう。その利益を役人と企業と族議員で山分けする。国はやせ細っていく。
若いころ、私は好き好んで派遣社員になった。それは、日本の企業風土が大嫌いだったからだ。縦社会で、目上の者には逆らわない。白いものでも黒という。そしてそのことを礼儀だと思って疑わない。その吐き気がするような社会に背を向けたつもりだった。
だが背を向けただけだった。
この数ヶ月の派遣切りの有様を見て私としては複雑な気分だ。
腐っていると思って食べなかったものが、やっぱり腐っていたと分かったとき、人はどう思えばよいだろうか。確かにそれは食べなかったけれど、しかし、他に食べるものがあるわけではない。いつかは空腹に耐えかねるときがくるのは私自身にもはっきりしている。