ピカソとクレー

knockeye2009-01-12

源氏物語〈第2巻〉花散里~少女 (ちくま文庫)

源氏物語〈第2巻〉花散里~少女 (ちくま文庫)

お江戸ではとっくに松が明けているはずなのに、渋谷ではなぜか迎春の飾りがとれていない。
もっとも振袖姿の女性をちらほら見かけるのは、今日が成人の日だからと遅ればせに気が付いた。
ヘブンアーティストIN渋谷という催しは成人式の一環で行なわれているそうで、ホコテンで獅子舞をやっていても、正月とは特に関係なかったわけである。まぎらわしいっちゃまぎらわしい。
クローンは故郷をめざす」が今年の映画初めとすれば、今日は美術館初め。Bunkamuraミュージアムで「ピカソとクレーの生きた時代」と称して、つまりはドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館所蔵展が開かれている。この美術館が改装工事に入るために、その間所蔵品が出稼ぎ巡業に出るということらしい。
クレーの作品が多いについては、

1960年、ノルトライン=ヴェストファーレン州知事は、州議会の反対を押し切りアメリカ人コレクターよりクレー作品88点を購入するという決断をしました。

スイスのベルンに生まれたパウル・クレーは、幼少の頃より音楽と絵画の才能を発揮し、芸術家としての道を歩み始めます。しかし、1933年アドルフ・ヒトラー率いるナチスは前衛芸術を徹底的に弾圧し、クレーを含め、芸術家たちは「退廃芸術家」という烙印を押され作品は国外に流出してしまったのです。

戦後のドイツにおいて、クレー作品を高額の出費をしてまで取り戻すことはドイツ人が自らの負の歴史に立ち向かい、ナチス政権中に失われてしまった文化を取り戻すという政治的決断でもありました。

ということだそうだ。
クレーの絵を退廃的とは何とも的外れ。いずれにせよ政治家が絵の評価にまで手出しすることはない。暇だったんだろうね。
印象派は色彩を影から解放したわけだけれど、よく考えると影は目が奥行きを認識する唯一のよすがなのだから、印象派の絵が質感や立体感を無視してしまったのは確かかもしれない。
セザンヌ印象派のアンチテーゼとなりうるのはそこだと思うけれど、セザンヌの理論から出発したキュービズムは、私にはその発展系には思えない。対象を解体したのはいいとして再構築してないという気がする。バラバラ死体を縫い合わせても生き返らない。それを再構築といえるかどうか。
キュービズムは対象の解体と再構築なのでどこまでも具象画だったが、キュービズムの絵を見れば誰でも「これだったらいっそ面も色も線も対象に捉われずにイチから作り出したらいいんじゃないの」と思うのだろう。
カンディンスキー、ミロ、クレーはまさにそういう絵で、私は彼らの絵が好きで、それもここに書いた順番に好きだった。つまり、クレーはそんなでもなかった。
というのは、クレーはここに書いた三人のなかではもっとも具象に近い。何が描いてあるかわかる絵が多い。それがちょっと煩わしいかなと感じていた。
でも最近ちょっと嗜好が変わってきてクレーの絵も好きになってきたのは、クレーの絵の音楽性に気づいたから。
たとえば、今回の展覧会のフライヤーにも使われている<リズミカルな森のラクダ>は、

タイトルに「リズミカル」という言葉が使われているとおり、はっきりと音楽が意識されている。
<直角になろうとする茶色の三角>なんかも題名がもう現代音楽っぽい。
偶然だけどミロの大作の題名も「リズミカルな人々」だった。「だった」というのは、気に入った絵がポストカードで売っていると買ってくるので、今その裏書を確認しているわけ。
ミロの場合はクレーに感じるような音楽性はない。クレーの場合は聞こえてきそうなのである。
印刷になると色彩の深みが失われてしまうが、ミロには原始的なやすらぎみたいなものをいつも感じる。一番近いのは焼き物の名品、名のある楽茶碗とかから受ける感銘に近い。
ピカソについてはキュービズム以外のものは大概好き。同じく今回のフライヤーに使われている<鏡の前の女>はやはりいい。

キュービズムという呼称は彼が自称したわけではないし、キュービズムピカソのほんの一部なのだから、大方の人がキュービズムについて頭を悩ませているうちにピカソ自身はさっさと通り過ぎてしまったのだろう。