ララピポ

下妻物語」「嫌われ松子の一生」「パコと魔法の絵本」とわが道を行く中島哲也監督の脚本。これがデビューの宮野雅之てふ人が監督している。
面白かったけど、ひとつだけ「?」と思ったのは、ナレーションについて。
登場人物のほとんどがナレーションする。台詞より多いくらい。いや、多い。
映画を見た人は思い出してもらえばいいが、あのナレーションをすべてなくしたって何の不都合もない。むしろ、ない方が印象的になるシーンがいっぱいあったと思う。
以下、ネタばれにならざるえないのでまだ見ていない人は読まないでね。











たとえば、ごみ屋敷の主婦、濱田マリが、実は、寝たきりの姑を二階に放置して死なせてしまっている。それを客に知らせるのに、ナレーションを使う手はない。
役所の強制執行が翌日に入るという夜、ごみだらけの暗いダイニングに腰掛けている濱田マリ、天井を見上げる、カメラが二階にあがる、老婆の死体、あるいはその一部。姑の小便を拭き掃除しているまだ身なりがちゃんとしている濱田マリ、カメラはダイニングの天井にもどる、小便が染み出した天井、そうめんの中に落ちてくる小便、現在の濱田マリ。で、いいんじゃないだろうか。ナレーションどころか台詞も要らない。
成宮寛貴がクルマに撥ねられるシーンに
「このとき初めて、俺は知子を本当に愛していることに気づいた」
とかいうナレーションは、よくいえば不要、悪くいえばぶち壊し。絶対入れるべきではない。
シーンの切り替えとか、UFOキャッチャーと街の風景を重ね合わせるアイデアとか、映像に語らせることができる監督なのに、どうしてああナレーションを多用したのか。あれでは言葉と映像が喧嘩してしまう。相殺してしまうといってもいいかもしれない。
ナレーションがない森三中村上知子が一番存在感を発揮していた。金を受け取るときに背中を向けているあの演出は最高。
くどいようだけど、他にもナレーションをはずしたくなるシーンはいくらでも思いつくよ。もったいない気がします。ナレーションが多すぎるせいで台詞の印象も弱まるしね。いいことないです。
AIの主題歌がカッコいいっす。