「ダウト あるカトリック学校で」

knockeye2009-03-20

三連休だが、去年の今頃と違って、今月は毎週のように三連休なので、ありがたみがない。
関東地方はどこもそうだったろうか。午前中はときおりたたきつけるような雨。京都に住んでいたころ突然の雨に羽をぬらして飛べなくなった雀をみたのを思い出した。
まさに飛ぶ鳥も落とす雨が、天気予報どおりあがった午後、川崎チネチッタへ「ダウト」を観にいく。気温に確信がもてなかったが急上昇した。
メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの競演だから、それだけで見応えがある。
元はブロードウェーの舞台劇だそうで台詞、台詞で引っ張っていく完全な台詞劇。むしろ舞台劇として評価が高かったのはよく分かる。
副題にもある「あるカトリック学校」を舞台にしているが、テーマはもっと普遍的なものに思えた。
偶然にも昨日ブログに書いたこととリンクしているかもしれない。辻原登が日本語に希薄だと指摘した「私」という意識は、キリスト教文化の近代と私たちの違いをはっきり印象づけている。「私はこう思う」という意見のぶつかり合いが力強い言葉を生む。そしてその背景には常に、この場合には神だが、絶対者への意識がある。キリスト教徒が「私は」というとき、言葉は神に向かっている。
人間が論理的にも倫理的にも不完全であるとしても、その不完全な論理と倫理がせめぎあう位置の高さがその人の品位だと私は思っている。
宗教はそれを引きあげる力として意味を持っているが、一方ではそれを押しつぶす力としても働くことは例を挙げるまでもないと思う。○○の宗教さえ信じていれば、人間として優れているというようなことが言えれば、先に言ったことは全く意味をなさない。
観客はメリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンのどちらが正しいとも断言できないはずだ。
「疑いは信仰と同じようにあなたを導いてくれる」
という冒頭の説教は、どんなに高い次元まで信仰を推し進めていっても、必ず意味を持つ言葉だろうと思う。
公式サイトの紹介では
「ストリープとホフマンのふたりが終盤でくり広げる、約15分にわたる壮絶な言葉を介した"闘い"は、映画史上に残る屈指の名シーンとして長く語り継がれるのに違いない。」
と書いている。
公式サイトだから、もちろんそういうことを書くわけだけれど、確かに迫力があった。
ここまで書いてきたことからも推察していただけると思うが、少なくとも娯楽作品とはいえないわけで、こういう作品を平気で作ってしまうところに底力を感じる。
でも、ハリウッドではないんですよね。小林信彦はクリント・イーストウッドが撮るのを辞めたとき、ハリウッドは終わると書いてました。
今日、「グラン・トリノ」の予告編が流れてました。