「雪の下の炎」

knockeye2009-04-13

ダライ・ラマ14世のいるダラムサラへ、雪のヒマラヤを越えて亡命していくチベット僧たち。その行列に向けて、物陰に身をひそめるでなく、腹ばいになるでなく、立ったまま無造作に銃を撃ち放つ中国の兵士。ゆれる豆粒のようにしか見えないその列の豆粒ひとつが、雪の中にうずくまり、それ以上進まなくなった。
2006年、冬季オリンピックが開催されたトリノ、会場からは遠く離れた街の片隅、設えられたテントのなか、パルデン・ギャッツォと二人のチベット人青年が13日間のハンガーストライキを行なっていた。2008年のオリンピック開催地が北京に決定したことに抗議するためである。33年間にわたって獄中生活を送ってきたパルデン・ギャッツォにとって、13日間の飢餓など、何ほどのことであろうかと思うと切ない。
ある夜、テントの中で、獄中で死んでいった仲間のことを青年に話し始めるギャッツォ。拷問を語るときも終始おだやかだった彼が、そのとき一瞬声を詰まらせた。彼はもう73歳になっていた。
60年を越す年月、他国に蹂躙され、文字通り死に瀕した祖国をおもい、互いに落涙する老僧と若者。
1950年、中国のチベット侵入以来、現に今このときも、拷問と虐殺と洗脳が続けられている。そして、中国はそれを嘘で塗りかため、国際社会は見て見ぬふりを決め込んでいる。
チベット問題にはタイムリミットがある。ダライ・ラマ14世が存命の間にこの問題を解決しなければ、国際社会は、なかんずく中国は、未来永劫この罪業を担い続けることになる。直ちに改めようとすれば改められることなのに、嘘でごまかしとおそうとする、人の心の姑息さが惨めだ。
人はどこまで惨めになれるのか。真実はどこまで弱く、正義はどこまで脆いのか。数と力を恃んで手に入れた勝利の惨めさを、しかし、惨めと感じない人間が多数派であることは、今更確認するまでもない。
考えてみれば、第二次大戦では、ともに虐殺の被害者だったイスラエルと中国が、今は、何のためらいもなく加害者の側に立っている。
戦後六十余年ずっと声高に私たちの祖父たちの虐殺を非難し続けている中国が、そのほぼ同じ年月、チベット人を虐殺しつづけている。
村上春樹エルサレム賞受賞スピーチを改めて読んでみた。だが、私にはただただ人間が惨めに思えるだけ。それ以外の感想は起こってこない。ただ、今も闘い続けるあの人たちのために、せめてもの思いでこの映画を観にいった。それだけである。