安保条約の成立 ー吉田外交と天皇外交ー

安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)

安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)

昭和天皇マッカーサー会見」の著者が日米安保成立の背景を詳細に分析した本。
あとがきから
「この報道に接して筆者は、日本の国土において考古学による科学のメスを加えることのできない遺跡と地域が、天皇陵と米軍基地であることを再認識させられることとなった。今日の日本において「神聖不可侵」と「治外法権」が厳然と生き続けているのである。しかも、この問題が、本書のテーマと完全にかさなりあっていることに驚きを禁じえなかった。」
首相と外相を兼任しワンマンといわれた吉田茂が、講和条約の調印にどうしても出かけたがらず、代理を立てて何とか固辞しようとしたエピソードは実に興味深い。日米安保はその内容が国民や国会には知らされることのないまま、講和条約のドサクサに調印された。
当初、吉田茂講和条約が締結された暁には「いかなる外国軍隊も日本にとどまることに反対である」との考えを米側に外務次官を通じて伝えていた。
背景としては、朝鮮戦争によって在日米軍基地が、アメリカの極東における戦略配置全体を防衛する「死活的要素」であることが明らかとなってきたという事実があり、
米側は
「日本のリーダーたちはこの事実を十分に知っているに違いないし、大きなスケールでパワー・ポリティクスを演じることを決して躊躇することのなかったこれらの日本人が、日本におけるすべての重要な基地の代価がアメリカが考えているよりもはるかに大きなものであることを示そうとするのは、理にかなったことである。」
と考えていた。
吉田茂が落としどころをどこに考えていたかはわからないものの、少なくともアメリカ相手に有利に交渉を進めようとしていたと考えていいだろうし、何より、米側もそう考えていたのである。
ところが、現実に成立した日米安保の蓋を開けると、米軍駐留は日本の懇願に応えてアメリカが与える恩恵であって、日本は自ら基地を差し出して、安保にタダ乗りさせてもらうという屈辱的なものになっていた。どういうわけでこのような結果になったのか。
マッカーサーにしても「日本は極東のスイスたれ」という非武装中立論者だったので、日本、韓国、中国に英米ソを加えた六カ国が締約国となる「北太平洋六国条約案」というものが現実に議論されていた。
この案では、日本と朝鮮半島を完全に非武装化し、南北は北緯20度から北極まで、東西は東経110度からベーリング海峡までの広大な地域を軍備制限地帯とし、さらに南千島から沖縄までが非軍事化されることが設定されていた。
1950年に国務長官特別顧問となり、日米講和を担当するダレス来日の直前まで、四回にわたった軍事専門家の会合のうち三回までがこの案についての議論だったそうだ。
その年、ダレスに天皇が宛てた文書メッセージというのがある。
「・・・現在は沈黙しているが、もし公に意見表明がなされるならば、大衆の心にきわめて深い影響を及ぼすであろう多くの人々がいる。仮にこれらの人々が、彼らの考え方を公に表明できる立場にいたならば、基地問題をめぐる最近の誤った論争も、日本の側からの自発的なオファによって避けることができたであろう」
この「大衆の心にきわめて深い影響を及ぼすであろう多くの人々」とは、戦争責任のため公職追放されている人々をさしている。
天皇が、吉田やマッカーサーの頭越しに、こういうメッセージを送っていたとすれば、交渉もパワーポリティクスもぶち壊しなのはいうまでもない。この著者、豊下楢彦は、表向きの吉田外交とは別に、天皇外交というべき非公式な外交が行なわれていただろうと推測する。
憲法の成立後も、吉田茂は「内奏」という形で天皇に謁見していたし、天皇自身もマッカーサーやダレスとかなりの頻度で会談を重ねていた。
「日本人の教養未だ低く、かつ宗教心の足らない現在、米国に行なわれる『ストライキ』を見て、それを行なえば民主主義国家になれるかと思う様なものもすくなからず」
国会図書館の幣原文庫に残された、マッカーサーと会見した天皇の言葉である。
そして現に、日本の基地はアメリカに「自発的にオファ」されたのである。
しかし、外務省や宮内庁が重要史料を公開しない現在では、すべては断片的な史料をもとにした仮説にすぎない。
だから、断定的なことはいえないが、民主化という見せ球の裏側で、重要な決定が国民の合意を経ずに決まっていく政治の二重構造が、もうこのときから始まっていたということには、少なくとも目を向けておくべきだし、心に留めておくべきだと思う。