ディア・ドクター

knockeye2009-07-12

私たちは今、単に少子高齢化というだけではなく、「頽廃した」とはとてもいえないし、「成熟した」とまでいっていいかどうかはわからないものの、ひどく老成した社会に生きている。
あやふやな正義を声高に叫んだり、これ見よがしに不正を暴き立てたりすることの薄っぺらさには、誰もがもううんざりしている。
そんな社会にでも、若い人たちは初々しい一歩を踏み出していかなければならない。
少し前までは、ただ若いというだけで希望に満ちていられる時代もあったというのに、今という時代は若さはその虚飾を剥ぎ取られ、本来の意味でしかない。若いという。
そういう若さゆえの戸惑いとゆらぎを瑛太が正確に演じている。

井川遥演ずる娘が、母親(八千草薫)の家で眠られぬ夜を転々と過ごしているとき、母の聞いている落語のテープがふと止まる。
クレジットによると、あれは三笑亭可楽の「立ち切り」だそうだ。
落語ブームの昨今とはいえ、観客の多くが「立ち切り」(上方では「立ち切れ線香」)を知っているとは思えないので、この噺のあらすじにふれておきたい。
ある大店の若旦那が、芸妓との道ならぬ恋をとがめられ、百日間、蔵に幽閉されてしまう。百日後、じつは、その間、女から毎日ふみが届けられていたが、若旦那には渡さなかったのだと番頭の口から知らされる。
「もし百日の間ふみが途絶えなければ、夫婦にと口ぞえするつもりでしたが・・・」
八十日をすぎたころに途絶えてしまった、所詮は遊女の情け、という番頭に、蔵住まいの間、願かけをしたそのお礼参りにと家を出て、かけつけたものの、女はすでにこの世になく、最期の様子を母親から聞かされた若旦那、位牌に線香を手向け、
「すまなかった、俺は生涯・・・」
ひとり身を通すと誓うその台詞が、あのテープの途切れたところであった。
八千草薫は、そこでテープを止めて戸口に立ち、暗い山なみに耳を澄ましていたのだ。
西川美和監督は、笑福亭鶴瓶の、タレント性ではなく、役者としての実力を信じて発揮させている。
香川照之は「ゆれる」に引き続きの出演。また、松重豊岩松了のコンビが刑事役で、三木聡作品さながらに物語を回す。
今年見た映画の中では間違いなく最高の作品。