戦争と版画家−オットー・ディックスと北岡文雄

町田市立国際版画美術館は初めて訪ねた。行きかたがわかったのでこれから時々訪ねてもよい。
オットー・ディックスの展覧会は昔見たことがある。図録を買っておくとこういうときに便利。1989年のお正月ごろに兵庫県立美術館で見たようである。二十年も前で、私はとっても若かったのである。身体だけはそのころに戻りたいものだ。
(せめて下半身だけでも)
当時の図録にも、今回展示されている版画「戦争」(1923−24年製作、1924年刊)の一部が収録されている。ということは、その展覧会に展示されていたということになるが、私は全く憶えていない。
大きいものでも30cmほどの白黒の版画なので、たぶん素通りしてしまったのだろう。
オットー・ディックスの戦争は第一次大戦
町田市立国際版画美術館のプリントから少し引用する。
「1914年、7月、第一次大戦が始まると、22歳のディックスは戦場に立つことを熱烈に願い陸軍に入隊します。
はじめに送られたのはフランス北西部からベルギーにわたる西部戦線です。100万人もの戦死者を出したソムの戦いにも参加、大けがも何度か負いました。
(「クレリィ=シュル=ソムの崖で見かけたもの」)
西部戦線では、いつ終わるとも知れぬ塹壕戦が続いていました。塹壕とは戦場で銃弾や砲撃を避けるために掘りめぐらす溝で、兵士たちはそれぞれの陣地に掘られた塹壕にひそみ、攻撃の機会をうかがいながら、姿の見えぬ敵の恐怖に耐え、日々を送っていました。
(「壕の中での食事」)
雨が降れば泥の海と化し、戦闘で亡くなった兵士の死体は運び出されることもなく悪臭を放ち腐っていきます。そして最後には骨と化し、もはやどこの誰かも知ることができなくなってしまうのです。
(「壕の中で死んでいる歩哨」、「ぬかるみの中の死人」)
悪夢のような戦場の様子に加え、第一次大戦で初めて本格的に用いられるようになった毒ガスや、航空機による都市への爆撃など、近代戦争の姿がこの作品には克明に描き出されています。
(「毒ガスの犠牲者たち」、「毒ガスを使って前進する攻撃隊」、「爆弾の投下で破壊された家」、「爆撃を受けるランスの町」)
1918年に戦争は終りました。ディックスが戦場での体験をもとにこの作品を完成したのは1924年のことです。悪夢となってとりついた記憶を見つめ直し、作品として表現するには、それだけの年月と恐ろしいまでの苦しみが必要だったのです。」
「サン=マリ=ア=ピの狂女」には思わず目をそむけてしまう。
「瀕死の兵士」は、多くの死者たちの絵を見てきた後では、彼が瀕死であることがとても信じられない。
ナチスが実権を握るとオットー・ディックスも公職を追放され「頽廃芸術家」の烙印を押されてしまう。
クレーの場合、頽廃芸術展覧会で巡回したあと作品の多くが破棄されてしまったのだが、オットー・ディックスの場合はどうだったのだろうか。
レオナール・フジタに限らず多くの画家が戦争画といわれるものを描いたが、彼らは兵士として戦争を体験したわけではない。それはせいぜい飛行機や軍艦というモダニズムであるか、群像画というモチーフであった。
第一次大戦中、フジタはパリで空襲を経験している。今でこそ私たちは「戦争は悲惨である」という共通認識を持っているが、明治生まれのフジタが、今の私たちと同様だったと思うべきではないだろう。)
ピカソゲルニカも実体験ではない。岡本太郎の「明日への神話」は原爆を描いたものだが、もちろんこれも実体験ではない。
日本でオットー・ディックスのような立場の画家は香月泰男くらいであろうか。
戦争を個人の体験として描くことで、オットー・ディックスは時代を超えていったという気がする。描いた絵に、生と死の手触りを見出せなければ、おそらく彼がそれを描く意味がなかっただろうと思うからである。
北岡文雄の戦争体験は満州からの引き揚げで、その記憶を小さな木版画のシリーズ「祖国への旅」として残している。
しかし、正直言って、同時に展示されていた戦後の作品群、
「漁村の午後」とか「シカゴ夜景」とか「旅の宿の自画像」
などの方がずっと好きである。
白神山地(春)」は美しい。
しかし、収容所に所在なげにうずくまる孤児の姿が、この画家の原風景として残っていないとはとても思えないのもやはり事実である。
付記しておくと、どういうわけかこの展覧会無料である。