オットー・ディックス補遺

http://d.hatena.ne.jp/knockeye/20090720に書いたことの続き。
オットー・ディックスの図録をもう少し読んでみて、ちょっと発見があったので記す。
ドレスデンの伝記作家フリッツ・レフラーに、ディックスはこう語っている。
『過去の人びとの戦争画は、どうも現場にいたようには見えないのです。
たとえば、レオナルドのカルトンは、たしかに古典的な構図ですが、戦争の本質については何も語っていません。
それにたいして、レオナルドの言葉による記述では、本当に流れ出る血をまのあたりにし、倒れた兵士の叫びを聞き、死体の腐った臭いを嗅ぐような気がするのです。・・・わたしは、こうした現実性をいつでも呈示したいのです。』
こうした領域で筆頭に上げられるべき仕事が1923年の『塹壕』であり、この絵がいつまでも付きまとうことになるという点で、ヴェルトナー・ハフトマンが言ったように、それはディックスにとって、『運命の絵』となった。」
「1922年の『死んだ兵士』は、『塹壕』のために描かれた習作のひとつである。」
生身のからだで経験したことが、いつしか曖昧な悪夢に変わていく前に、記憶のイメージを、もう一度現実によってチェックする作業が必要だった。
オットー・コンツェルマンの証言。
(『もうひとりのディックスーー人間と戦争をめぐるそのイメージ』1983)
「ディックスはわたしにこう語ってくれた。
ある日のこと、彼は病院に出かけていって、
『内臓を描かなければならないのです!』
といった。
すると、その病院の主任医師が鉢一杯のはらわたをもってきてくれたのだ。彼は仕事に取り掛かりそれを水彩画で描き上げた。
−−−また出かけていって、今度は
『脳を描かなければならないのです!』
といった。
すると、頭蓋骨が割れた髑髏を持ってきてくれた。
−−−『死体が必要です!』
というと、上から下まで切開され、そのあとでもう一度大雑把に縫い合わせた二人の女性の死体のところに案内された。」

「ディックスにとってのこの運命の絵は、完成したその年(1923年)のうちに、ケルンのヴァルラフ=リヒャルツ美術館で公開されている。
この美術館の館長であったハンス・ゼッカーが勇気を持ってこの作品を買ったのである。そのことで、ゼッカーは後に解雇されることになった。」

「『塹壕』は、1937年のミュンヘンでの『頽廃芸術』展の呼び物となり、そのあとで焼却された。」