ゴーギャン展

「オヴィリ」と名付けた彩色石膏像がある。ゴーギャンはそれを自分の墓碑に使おうと考えていたこともあるそうだ。
全体にこげ茶色だし、小さな虫食い穴のようなものが見えたので、わたしは木彫かと錯覚した。
犬が腰のあたりにじゃれ付いてくるのを両腕でおさえているポーズは「エ・ハレ・オエ・イ・ヒア(どこへ行くの?)」という油彩に描いたタヒチの裸婦と同じだが、この像は足下にもう一匹別の犬を踏み敷いている。まるで、邪鬼を踏みつける帝釈天のようだ。
しかし、その足は日本の仏像のように写実的ではなく太くたくましく、もっと土俗で素朴なものを感じさせる。乳房は小さい。顔は非常にプリミティブで、呼びかけるように口をあんぐりと開け、鼻は平たく目は離れていてしかも出っ張っている。
ゴーギャンの絵のあちこちに登場する黒い犬は、ゴーギャン自身を投影していたというから、あの犬もゴーギャン自身なのかもしれない。
「かぐわしき大地」のタヒチの裸婦のたくましい足はゴーギャンの好みらしい。まだタヒチに渡る前に描いた「海辺に立つブルターニュの少女たち」の足も同じようにたくましい。
ゴーギャンの描く女たちの足は谷崎潤一郎の好みと通じるものがあるように感じた。たしか「瘋癲老人日記」に、息子の嫁の足を偏愛するあまり、仏足石のように型にとって墓石に使いたいと、老人の妄想するシーンがあったように思う。
裸婦の足もそうだが、まだ印象派のスタイルを脱していない初期の「水浴の女たち」の海や空の色からすでに、タヒチを描いたと同じく、明度が低い深い色を使っている。
青い馬に乗った男の後を、自分も馬に乗ってついて行くタヒチの若者を描いた後年の「浅瀬」の、木々の間から垣間見える波立つ南洋の海も、明度の低い深い色で描かれている。
暗い森の中から明るい空や海を見た場合、たぶん実際にもこの絵のように明度が落ちて見えるとも考えられる。しかし、「水浴の女たち」の空や海がなぜ暗いのか。
こういうのを見ると、ゴーギャンタヒチの出会いは運命的と思えてしまう。
今回、日本初公開となる「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の海の色も晴れているのに深く、どこか彼岸を思わせる。
ひとつ不思議に思ったのは、絵のタイトルが書き込まれている左側にこの海があること。タイトルがそこにあれば、人はまずそこを見ると思われるので、どうしても一番先に見るのはこの海ということになる。
そして、絵全体は左上から右下に向かうなだらかな線上にあり、一番右下に赤ん坊が描かれている。右下の二人の裸婦だけがこちらを見ている。
左下にペルーのミイラのポーズの老婆がいる。その老婆ともうひとりの裸婦はふたりとも右に視線を送っている。
中央に立つ人物は高く手を伸ばして果実を採ろうとしているところ。足元の少女はその果実を口にしようとしている。かたわらに猫が二匹。
右やや奥に描かれた紅衣の女二人は何ごとかささやきあいながら歩み去ろうとしている。
左側にわずかに日向があり、樹影から光が左から指しているのがわかる。
しかし、まず海の色に目がいくのは、個人的なことなのかもしれない。人によっては、中央の人物にまず目がいくかもしれないし、あるいは、こちらに目をくれている裸婦二人かもしれないし、老婆かもしれない、赤ん坊かもしれない。私にしても、また別の機会に見れば他のところにまず目がいったかもしれない。
ゴッホと暮らし始めたころの絵も一点あって、そういわれてみるせいか、どこかゴッホと共鳴しているような気がした。ゴッホイーゼルを並べて描いたそうだから、そうならざるをえないともいえるけれど、「アリスカンの並木道、アルル」の赤い紅葉は、ゴッホなら黄色く描いたかもしれないという気がした。
ゴッホの黄色とゴーギャンの青い海の色。この補色関係をそのまま二人の関係にあてはめてみたくなる。たぶん、ゴーギャンの絵がつよい象徴性をまとっているせいだと思う。