レオナール・フジタのガダルカナル

常設展に三岸好太郎の蝶とレオナール・フジタガダルカナルがあった。
レオナール・フジタ戦争画は、オットー・ディックスと比べると、やはり「手触り」がない。その意味では乳白色の裸婦の方がずっとよい。あるいは、1949年の「カフェ」とか。
「世界の藤田嗣治」として、新しい画風を模索する中で、メキシコの壁画運動に触発され、大画面の群像画に新しい展開を求めていたというところなのではないかと思う。
レオナール・フジタという人は、一枚の葉っぱを写生したあと、その葉っぱを絵に重ねると、寸分の違いもなくぴったりと重なるという特技を持っていた、いわば、天才画家なのである。
その孤独な模索の過程がたまたま戦争に重なった。
それに対する批判のあり様は、あまりにも野次馬的で、ご都合主義だったように私には感じられる。
フジタがいちばん批判しがいがあったというだけではないだろうか。何しろ世界的な著名人はフジタしかいなかったのだから。
フジタのパリ在住時代、フジタを頼って寄食した日本の画家たちは、食べ終わった食器まで、フジタ自身に洗わせていたという。
戦後、フジタを人身御供に差し出した画家たちの中に、フジタに食器を洗わせた画家がいなかったろうか。それを考えるとすごくいやな感じがする。