村上龍と中上健次、サルサとレゲエ

サルサの映画を観たわけだけれど、村上龍中上健次サルサとレゲエについて対談していたことがなんとなくわかってきた。
中上健次はレゲエをとり、村上龍サルサをとる。それは中上が
サルサで同士結合とかはむずかしいと思うんだよ。レゲエでいうと、すぐパッと集まっちゃうという、そういうのがあるんだよ。」
とか
村上「レゲエは何かを変えたよね。」
中上「もちろん、変えた。」
村上「サルサは何も変えてないものね。」
中上「変えてない。ただ存在するだけで。」
村上「サルサはエンターテインメントなんだよ。」
中上「それに行く感受性というのは何なのだ、というところを俺は言いたい。」
といった会話からわかることは、中上健次は、音楽や小説がもつメッセージ性についての意識が、まだあることを自覚しているということではないだろうか。
村上龍はたぶんそういうことはもう信じていない。か、あるいは、意識してさえいない。
そういうことというのは、つまり、小説や音楽が、それ自体で伝えること以上のことが何か伝えられるというようなこと。
だからこそ、「五分後の世界」や「ラブ&ホップ」が書けるのではないか。
もし、あの小説にメッセージがあるとかんぐられると思っていたら、あれは書きにくいのではないかと思う。
サルトル実存主義者だからシャンペンの泡について語れるように、村上龍はメッセージ性を捨てたからこそ、「非国民」という言葉が小説で使える。
のかな。