宗教の理論

宗教の理論 (ちくま学芸文庫)

宗教の理論 (ちくま学芸文庫)

帰省のついでに、こんな折でなければ読まないであろう本を持って帰った。
帰省中はけっきょく読まなかったけど、今日、読み終えた。(のかな?)
宗教の理論なのに、第一章はなぜか「動物性」、でも、面白いことが書いてあった。

そもそも肉を調理するためにあれこれ手間をかけるのは、本質的には美食の追及という意味を持つのではない。それ以前に問題となっているのは次のような事実、すなわち人間はなにものであれそれを一個のオブジェに変えてからでなければなにも食べない、という事実なのである。

もちろん、これは譬えであるけれど、私たちには当てはまらない譬えである。何しろ、私たちは魚を活け造りにして食べるし、焼き鳥屋で雀の丸焼きも食べる。キリスト教徒が七面鳥の丸焼きを食べるのは、クリスマスという祝祭のときくらいなのだろう。
カインが弟アベルを殺したのは、神エホバが、アベルの貢物を取って、カインの貢物を取らなかったからだ。
カインは耕す人、アベルは狩る人だった。
農耕民と作物の関係は、狩猟民と獲物との関係とはまるでちがう。狩猟民と獲物は命の重さにおいて対等だった。
人が自然を手なずけて、食べるものと食べられるものの命の連続性を忘れたとき、人は神の顔を見る値わざるものになった。

農耕者はひとりの人間ではない。それはパンを食べる人の犂である。極限的にはパンを食べる人自身の行為がすでに田畑の労働であって、食べる行為はその労働にエネルギーを供給している。

カインがアベルを殺したように、労働と生産によって連続性を次々に事物に分断していくことで、私たちは自分たち自身の存在も疎外していく、ちょうどカインが楽園を追放されたように。
神の顔を見る値わざるものになった私たちにとって、原初には生と死、善と悪の連続性であった聖性も、事物の世界での道徳的二元論に転化する。
二元論が、死を生の時間的な後ろに追いやったという視点は面白いと思った。
いわれてみればたしかに、生の後に死があるという考え方はどこかおかしい。しかし、内在性を失った事物の世界にあっては、生は構造的に永遠に終わることができない。したがって、意識は死を無限の生の後に設定するしかなくなってしまったのである。

死がそこにあった時には、誰もそれがそこにあると知らなかった。死は無視されており、それが現実的な事物の利にかなうことであった。しかし突如として死は、現実社会が嘘をついていたことを示す。

死が何者であるか知っている人間はいないと思われる。それは、生が何者であるかも誰も知らないといいかえることもできる。私たちは時を河の流れにたとえ、死を眠りにたとえて生きていて、いつしかそれが譬えにすぎないことを忘れてしまっている。
この本の文章は、バタイユの存命中には発表されなかったそうだが、書かれたのは1948年で、戦争と人身供犠について書かれているところは、ホロコーストが念頭にあると思った。
エリザベス・キューブラー・ロスが、戦後すぐに、ホロコーストの行なわれた収容所を訪ねたとき、壁に無数の蝶の絵が描かれているのを見たと書いていた。
洋の東西を問わず、霊魂を表すとき、人は何故か蝶の絵を描く。私たちは霊魂について何も知らないのだから、ほんとに蝶が霊魂であっても、別に驚かなくてもいい。