鎖国の民

knockeye2009-08-20

自民党の選挙CM見た?
何をいいだすかと思えば「成長戦略」てか。
今まさに政権を担っているんだよね?(そういえば、所信表明演説のかわりに代表質問したりしてたけど)
成長戦略があるならやってくれよ。300も議席を持ってんだからよ。バラマキしかやってないだろうがよ。
ゴルバチョフが来日したとき、「日本はもっとも成功した社会主義国家だ」といったと伝え聞いている。それはたぶん誉めたのだろうけれど、いくぶんかの皮肉も忍び込ませていただろう。というより、ソビエト社会主義共和国連邦の最後の書記長に誉められることが、歴史の皮肉というべきか。
今朝の新聞に榊原英資が書いていた。
自民党の政治は基本的に官庁に丸投げだった」と。日本の官僚は、1940年体制の革新官僚である
ソ連の崩壊という形で冷戦が終わったとき、私たちは勝者の側にいたつもりだった。が、実は敗者の一員だったのかもしれない。負けたことに気がつかないほど鈍感だっただけかも。
占領に際してなぜアメリカが日本の官僚制度に手をつけなかったかについても、もちろん野口悠紀雄は書いていたが、まあしかし、戦勝国がそこまでご親切じゃなかったとしても別に驚くにあたらない。
いずれにせよ、結果的に残った1940年の革新官僚が、後に、ソ連の書記長のお褒めにあずかったのはむしろ当然かもしれない。
自民党政治は、内政は社会主義的官僚に丸投げ、外交はアメリカに丸投げ。
要するにそこに政治というほどのものは存在していなかった。
村上龍柄谷行人の対談で、70年代以降の日本は、精神的な鎖国状態に入っているのではないかと指摘されていることは以前書いた。
最近、鎖国というキーワードが耳にひっかかっていて、たとえば、「朝まで生テレビ」で貧困を扱ったときに、森永卓郎のぐだぐだぶりに業を煮やした田原総一郎が、
「森永さん、日本は鎖国すべき?」
と言ったのが印象に残っている。
というのも、そのとき私には、鎖国というものがかたちになって見えた。鎖国がイメージできたのだ。
ゆでガエルの譬えは、つまり鎖国ということなんだと。鍋が煮え立っていくのに危機感も持たない。どころか、変革に踏み出した人たちに文句をたれている。
ほんとだ。村上龍の言うとおり、いつの間にか日本は鎖国していたんだなとそう思った。
麻生下ろしの時機を逸した自民党はおそらく大敗するはずである(もちろん、“鎖国の民”がどれだけ応援してくれるかに拠るが)。「政権交代」は「郵政民営化」よりはるかに強い訴求力を持っているだろう。
私が危惧しているのは、政権交代の対立軸の曖昧さ。
小泉純一郎が、小さな政府、日米同盟優先という明確な旗印を打ち出していたのに、麻生太郎が政策を官僚に丸投げしてしまったために、自民党の存在意味そのものがわかんなくなってしまった。意味わかんない政党になってしまったのである。
麻生太郎が歴史に残るとしたら、「実は私は反対でした」という言葉とともにではないだろうか。選挙で最大の争点となった公約を、なんと総理大臣が堂々(威風堂々?)否定した。これは未来永劫語り継がれる笑い種になるだろう。
さらにひとつエピソードを付け加えるとしたら、閣僚が件の発言のもみ消しに躍起になる中、森喜朗元首相は「胸を張って郵政民営化賛成といったのは小泉さんだけ」といったのである。
森喜朗は、小泉純一郎の前首相であるが、
「日本は天皇を中心としている神の国
と発言。その他にもろもろの失態を積み重ねて支持率9%という数字をたたき出した。
だから、鎖国ということで言えば、自民党は元に戻ったというべきなのだろう。森から麻生へ鎖国のバトンタッチ。これが自民党の正しいキャッチフレーズだろう。
そう。自民党は元に戻っただけ。でも、内外の状況は戻ってくれない。変われないなら置いていかれるだけだ。
話がそれたが、小泉純一郎推し進めた小さな政府、日米同盟という路線に対して、民主党は、大きな政府、国連中心主義という方向なのかどうかが、麻生が場当たり主義なばら撒き政治をやったためによく見えなくなってしまった。
本来、大きな政府を目指すなら、消費税は上げてもいいはずなのだ。
ただ、日本の場合は、見えない税金の部分まで含めて考えないと改革にならない。その意味ではたしかにまず官僚政治を解消する必要はある。何よりもまず民主主義。そんな段階なのかもしれない。
ところで、今日は少し空気に秋の気配を感じた。暑さが重たくなくなった。
お盆休みに関西に帰って、はじめて知ったのだけれど、今年関西はお盆前まで梅雨が明けなかったそうだ。こちらは今年あまり暑い日がなかった気がする。