5年前のブログから

週刊朝日堀江貴文が「ホリエモンの近未来大予測!」という連載を始めている。
ホリエモンは面白い人だと私は思っているが、連載を追いかけようとまではまだ思っていない。今回手にとってみたのは、スペシャルと題して、竹中平蔵との対談が組まれていたので。
竹中平蔵小泉純一郎については、どういうわけか、市場原理主義だの新自由主義だのといって非難することがネットのトレンドになっていた。
しかし、私は、そういう議論を一切信用していない。私は現に社会に出て仕事をしている人間として、現場の仕事が、主義だの思想だので動かないことを知っている。
小泉純一郎竹中平蔵市場原理主義者であろうが、共産主義者であろうが、その思い通りに政治が動くわけがない。
ましてや、不良債権の処理に着手し始めたころ、自民党内においてさえ、彼らはほとんど四面楚歌だった。忘れてしまっているとしたら、ちょっと記憶力に問題があるだろう。
それに(笑)、そもそも、1940年体制といわれる官僚社会主義にがんじがらめになっているこの国のどこに、新だろうが旧だろうが、自由主義などというものがあったのか。笑ってしまう。
彼らに対するヒステリックな批判については、滑稽に感じると同時に、根っこの部分でひどく不快だ。

村上 ・・・『単一民族神話の起源』の中の言葉で、近代日本で流通した集団観においては「まず個人があり、それがあつまって集団ができるのではない。まず集団があり、そこからの疎外現象として<個人>が析出されるのである」とありますが、まさしくその通りだと思うんです。こんなに明確にすっと入ってきた文章はないですね。

村上龍小熊英二の対談の一節。
小泉竹中批判の得体の知れない不快さについて考えているうちに、だんだんこの文章が頭に浮かんでくるようになった。
近代日本での<個人>は、集団からの疎外現象として析出した。
そしてこれについて考えていると、この不快感は、いつか近い過去に経験したことがあったと思い出した。

 そう簡単に見過ごせない一件ってものがある。どうしてもはっきりさせておきたい。この時代の日本人が自己を欺いて恥じない堕落したものたちしかいないのなら、次世代の日本人のためにこの本を作っておく。
政治家からマスコミから知識人から一般大衆まで、ウソの責任感とウソの情報とウソの道徳観を振り回して、人質になった女こどもに魔女狩りのようにバッシングを繰り広げたあのイラク邦人人質事件。
それは4月に起こって、たちまち日々生起する事件の洪水に押し流されていったかに見える。だが見逃してはおけない。・・・

これは、2004年の8月25日にこのブログに引用した、小林よしのりの文章。
あの高遠菜穂子さんの事件については、ショックを受けた人も多くいたはずだ。
当時、SPA!のコラムで鴻上尚史が、日本人を辞めたくなった、と書いていたのを憶えているし、映画「ぐるりのこと。」の橋口亮輔監督は、

 その頃、イラク戦争で日本人が人質になる事件がありました。救出された方たちが帰国された時、空港の野次馬の中に“自業自得”と書かれたプラカードを持ち笑っている若い女の姿を見て、日本人はいつからこうなったんだろうとショックを受けたんです。

と語っている。
世界ひろしといえども、異国で囚われの身になっていた人質が解放されて帰国するというときに、こぞって罵詈雑言を浴びせかける国民が日本人のほかにいるだろうか。
同じ本に小林よしのりはこうも書いていた。

 わしは本来、外人がこんなふうに日本はムラ社会だとか、タテ社会だとか、からかって「日本特殊論」を書くのはすごく腹が立つんだが、・・・(中略)
 ただねー、本当のことをいうと、今回の人質バッシングには日本の特殊性が表れてはいるんだね。みんなで「自己責任」「自己責任」と口をそろえて責めたこと自体にね。「自己責任」という個人主義のキーワードを使っていながら、訴えていることはじつは「集団主義」なんだから。

ただ、この二つの事柄の首謀者たち、名前も顔もないこの連中が、同一のグループに属しているように見えるのは気のせいだろうか。
日本のネット社会は、たぶん社会という名に値しない。むしろネット村と呼ぶのがふさわしい。
個人として社会に立ち向かう勇気がなく、ネット村の集団社会に埋没していたいゆでガエルたち。彼らが批判しているのは新自由主義でも市場原理主義でもない。彼らはただ自由が怖い。それだけ。
現実の社会では、高度経済成長が終わりを告げ、成長を前提としてデザインされていたすべてのシステムが改変を余儀なくされている。
無から有を作り出していかなければならないときには、過去のデータは役に立たない。たとえば、ことし、どこかの役所が発表していた年金の試算。さすがのNHKのアナウンサーも説明しながら、鼻がふくらんでいた。
昨日も書いたが、国民が郵政選挙で何を示したのかといえば、もうさすがに新しい国のかたちに向けて一歩を踏み出さないとまずいという危機感だと思う。
高度成長をささえてきた(あるいは、逆に高度成長にささえられてきた)古いシステムはもうあらゆるところでほころびを来たしている。多くの国民が共有している実感だと思う。
小泉純一郎竹中平蔵が示した方向性は、ひとつの選択として推進力を持っていたと思う。大雑把に言えば、小さな政府、日米同盟という方向性。
もちろん、国全体がひとつの方向を向いていた時代とは違うので、別の選択肢もあるべきだ。だからこそ政権交代が必要なのだし、そのためにも各政党がはっきりとした理念を示すことが必要なのだ。
そして、それだからこそ、郵政選挙で国民の圧倒的多数が支持したことを、それを掲げた当の政権自身が骨抜きにしたことだけは、どうしても許しがたい。

これも今までに何度か書いたことだが、高度成長期の政治家の役割は、政策立案にはなかった。政策は官僚に丸投げして、政治家は、高度成長によって生じる格差を埋めるために、非効率的な産業に不公正な利得をばらまいてきた。いわゆるドブ板政治家である。麻生太郎自民党をその時代に引き戻した。
まあ、引き戻したといっても、本質がそうだったとはいえるだろう。自民党の多くの政治家は、小泉政権時代、息を潜めて嵐がすぎるのを待っていたのだろう。森喜朗の「胸を張って郵政民営化を言ったのは小泉さんだけ」という発言にそれはよく現れている。
危機感のないゆでガエルたちに祭り上げられた、危機感のない政治家。それが麻生太郎だ。
高度成長期はとっくに過ぎ去っているのだから、どちらにせよ早晩彼らは淘汰される。しかし問題なのは、国民の選択肢が失われることだ。
昨日も書いたが、自民党の中で改革派がもう一度実権を取り戻さない限り、自民党創価学会の持ち物にならざるをえないだろう。なぜなら、政党として何の理念も示しえないのならば、いちばん強い求心力に引き込まれざるをえないだろうから。
望ましいのは、小泉純一郎が示した小さな政府で日米同盟か、大きな政府で国連中心主義かという対立の中から、新しい国の形が見えてくればよかったのだけれども。
渡辺喜美が言うように、麻生太郎が「時計の針を巻き戻してしまった」ために、今回の選挙は、脱官僚か否かという選択を問う選挙になってしまった。
だとすれば、答えは決まっている。郵政選挙で国民が示したのは、戦時下から営々と続く官僚支配のシステムをなんとか打破しなければならないという危機感だった。
であれば、今度も同じ答えが出る。マニフェストの細かな文言、財源の有無、そんなことは問題ではない。もう十年も前から、今のシステムは機能しなくなっている。国民はとっくにそう感じているのだ。