死刑宣告

ちゃんと8:00PMすぎるまで政治的な書き込みを控えたりするところが,われながらいじましい。
自民党に死刑を宣告するつもりで朝早く投票に行ったが、若い人の姿もけっこう多く、たぶん気分は共有しているという空気。それは思い過ごしではなかったようで、9:00PMごろのテレビでは、もう気の早い結果がすでに報じられ始めている。自民党には本当に死刑宣告が下ったようだ。
麻生太郎はこれで歴史に名を残すことになった。どちらかというと汚名だが、満足か?
渡辺喜美が神奈川に応援演説に来たとき、麻生太郎は「時計の針を巻き戻した」といったそうである。この言葉が私にはとても印象的。なぜなら、麻生太郎にとってと国民にとっては、その時計を巻き戻した昔が、大きく違うだろうと思うから。
麻生太郎やそのとりまき連中、また、官僚や族議員たちにとっての時計を巻き戻した昔は、蜜と乳の流れる楽園。ちなみに、森永卓郎にとっても、小泉改革以前の日本は年収300万円で幸せな夢の国だったらしい。
しかし、現実世界に生きているまともな大人たちは、バブルがはじけてから小泉改革までのいわゆる失われた十年に塗炭の苦しみを味わってきたことを忘れてはいない。そして、戦後(あるいはもっと前から)営々と続いてきた高度経済成長期のシステムがすでに現実と齟齬を来たしており、新しいシステムに変わっていかなければ、暮らしが立ち行かないと身にしみて感じていた。
郵政選挙で国民が示した民意とはつまりそのことなのである。
その国民の強い危機感を、旧態依然たる自民党世襲議員族議員、そして官僚たちは共有していなかった。小泉純一郎竹中平蔵が痛みを伴いながらも不良債権を処理した後は、また元通りのやり方で私腹を肥やしていけると考えていたのだろう。だからこそ、小泉改革以前にまで平気な顔で時計の針を巻き戻せたのだ。
だが、残念ながらそこにはもう死者しかいない。死屍累々たる黄泉の国。土建屋政治のバラマキ政策を踏襲するつもりがそこには腐臭しか残っていなかった。
いわゆる1940年体制に訣別し、まだない新しいシステムを築かなければならないときにこそ、必要なのは政党政治であるはずだった。
各政党が理念と政策をかかげて切磋琢磨する中から新しい国のかたちを見つけていくしかなかったはずである。
そして、小泉純一郎がかかげた骨太の方針はひとつの選択肢として整合性を持っていたし、それで選挙に圧勝したわけだから、現に推進力もあった。
それを麻生太郎政党政治が存在していなかった昔にまで時計を巻き戻した。政党としては自殺行為だったし、国民にとっては歴然たる背信行為だった。
残念なのは今回の選挙が、骨太の方針で行くべきなのか、それとも民主党が呈示する別の行き方がよいのかという建設的な選択にならなかったことだ。
というのも、麻生太郎骨太の方針をすべて骨抜きにしてしまったために、国民はその成果を評価しようがなくなってしまった。
今回の選挙も、前回の郵政選挙と同じ、麻生太郎の属する古い自民党体質の是非を問う選挙になってしまった。
この前も書いたけれど、だから、今回の選挙の結果はやる前から決まっていた。何回同じことを国民に問うつもりだろうか?
もう官僚政治が通用する時代ではない。
もし、今度民主党が、以前の細川内閣のように、また官僚に政策を丸投げするような事態になったら、こんどは民主党に死刑判決が下るだろう。せっかく大勝したのだから、徹底的な構造改革を実現してほしい。