「プール」 ちょっとネタバレ

映画「プール」のレビューをいろいろ見ていて、もしかしたら、あの映画の死のメタファーを見逃しているのではないかと思ったので、少し蛇足を書き加える。
私たち観客は、異国に暮らす母を訪ねてすぐに帰っていく娘さよが、この世に生きている人だと思わなくてもいいわけである。
さよは死者だとまではいわない。しかし、死のメタファーはありとあらゆるところに散りばめられている。
たとえば、タイに着いて最初に訪ねる涅槃仏。コムローイ。少年が供える花。母親のプレゼントの白いショール。
何よりも、もたいまさこの存在がある。淡々と流れる会話の中で、彼女の台詞に唯一日常的でないものがある。それがラストのドッペルゲンガーに効いてくる。
そして、前にも書いたけれど、朝もやの僧侶の列の中に消えていくあのラストシーン。そのとき娘さよは、母親の作った薄絹のショールを被っていた。
加瀬亮が作った鍋をつつきながら親子の交わす会話は、まるで独白のように不思議な諦めが漂っている。
そう考えていくと、あの誰一人泳がないプールは此岸と彼岸を隔てるもののメタファーなのだろう。
こういう見方もできるというだけなのだけれど、こういう見方をしないと最後のもたいまさこドッペルゲンガーの意味がわからなくならないだろうか。