「クヒオ大佐」

堺雅人は「アフタースクール」で味をしめたのか、コミカルな役どころが増えている。
クヒオ大佐」は実在した結婚詐欺師がモデル。この事件のことは憶えている。確か、実物の写真も見たが、なぜこの人をアメリカ軍のパイロットだと信じたの?と首を傾げる風貌だった。そもそもアメリカ人って。
そういえば、昔、「笑っていいとも!」でタモリが言っていたが、地方のクラブに行った時のこと、となりに座ったホステスが、一言もしゃべらずにまじまじ顔を見つめて、「よくそんなにしらじらしい態度が取れるわね」というので、よくよく聞くと、かつてタモリをかたるオトコにみついでいたのだとか、世の中には自分とうりふたつの人間がいるというのはほんとらしい、と言っていたけれど、そのとき私は、たぶんそのオトコは大してタモリに似てもいなかったのだろうと思った。きっとそのホステス自身がだまされたかったのだろうと。そしてたぶんだけど、木村拓哉とか名乗る男にはだまされなかったはずなのだろう。
だまされる女役は松雪泰子
この前、この人を見たのは「デトロイトメタルシティー」の女社長だった。その前は、「フラガール」の先生。そのときにも書いたか知れないけれど、この人は「ごっつええ感じ」のレギュラーだった。そのときに何かつかんだのか、もともとの才能なのか、あるいはその両方なのか知らないけど、本を咀嚼して吐き出すちからがすごいと思う。
松ヶ根乱射事件」、「ぐるりのこと。」の新井浩文が彼女の弟役。
トウキョウソナタ」でいい味を出していたアンジャッシュ児嶋一哉が、この映画でもけっこういい役で出ていた。
この2人の男があらわにしている今を生きる男のリアリティーが、堺雅人演じるクヒオ大佐とよいコントラストをなしている。
男たちはとっくの昔に、女に幻想を抱かせる存在であることを放棄してしまった。それに、女たちだってそれよりずっと早く、男の幻想の対象であることをかなぐり捨ててしまったのである。
でもその先にももちろん恋愛はある。アメリカ空軍のパイロットじゃなくても、恋愛の対象になりうる。
でも、幻想のない恋愛なんて、現実を忘れさせてくれない恋愛なんて、何か意味があるの?
というのが、ちょっとロマンチックな女たちの問いでありうる。だが、私だけでなくすべての大人が、これには言下に答えることができるだろう。恋愛の幻想より恋愛の現実にこそ意味があると。
しかし、だからこそ、この映画のヒーローとヒロインは切ない。手を汚すその勇気があったのなら、その幻想ではなく、現実をつかむこともできたはずなのに。
同じように貧しい境涯から這い上がる実在の人物を描いたという意味で、「ココ・シャネル」とだって、この映画を比べることができる。
ココ・シャネルもクヒオ大佐も実在の人物なんだと思うと、おかしくて切ない。
日米の政治的関係のマクロな視点をかぶせたのも、片隅で生きる男女の現実感をあぶりだすのに貢献した。