森田りえ子展

三越新館の森田りえ子展にも立ち寄る。
鹿苑寺金閣の襖絵を描いた日本画家。パリで開いた展覧会の帰国展。
この画家の二つの面が紹介されていた。
ひとつは、金閣寺の襖絵も任される花の画家としての面。
それは、<秋蒼穹>とか<王禅寺丸柿樹>などが代表している。
もうひとつは、裸婦を含め美しい女性像の画家としての面。
<粧>の三幅は、舞妓の裸身、襦袢すがた、そして装いを整えた姿の微妙な表情の違いを描いた力作だ。
裸婦もある。花の絵と共通しているのは、ゴージャスであること。鈴木春信とちがってとても肉感的。白いシャツとジーパン姿の女性を描いた<ブルージーン>が私は気に入った。
しかし、<粧>の三幅が証明しているように、画力が確かなのでいくらでも美しく描けてしまう画家なので、その分、「なぜそれを描くのか?」というモチーフに対する欲望というか問いを、もっと突き詰めないと訴える力が弱くなると思う。たんなる画題になってしまう。その意味は、アロイーズ・コルバスの裸婦たちと並べてみればよくわかる。
その課題は、森田りえ子ひとりが負っていることではないが、モディリアーニやレオナール・フジタが裸婦を描いていた時代とは社会の価値観が大きく違う。当時とは比べ物にならない高精細なカメラの前で、美女たちがむしろ誇らしく裸身を晒す時代で、そして、その写真の指向する意味ははっきりしているように見える。なにしろ、現にその女が存在しているわけだから、モデルの魅力をいかに引き出すかがカメラのすべてでありうる。
もしモデルが存在するとしても、架空の女として存在するしかない絵の女たちは、写真の女たちとは存在意義が違う。
ファイナルファンタジーの美女たちはなぜあんなに端正なのかといえば、CGの技術が端正に描けるからということにすぎないが、画家の答えがそれでは絵が描かれる意味がない、単に美しく描けるからというだけでは。
だからたとえば、こういうことはいえる。浮世絵画家たちが寛政の三美人をえがいたように、あるいは、レオナール・フジタがキキを、アルフォンス・ミュシャがサラ・ベルナールを描いたように、森田りえ子が米倉涼子を描くというならこれは面白いと思う。
しかし、モディリアーニの裸婦のオリジナリティーを目指すべきなら、もっとパッションを発揮していいのだと思う。
たぶん、<KAWAII>などの取り組みはそういう試みの一端であるのだろう。