『カール・マルクス』という本

カール・マルクス (光文社文庫)

カール・マルクス (光文社文庫)

本当に頭のいい人は、むずかしいことを簡単な言葉で語れる人だとよくいうけれど、出会うことのめったにないその実例がこの本だろう。
私には特に「マルクス紀行」の疎外について書かれているあたりが面白かった。
マルクスの商品の価値についての考察が、エピクロスに源を持つマルクスの自然哲学とはっきりつながっているのがよく分かる。
エピクロスは死についてこう考える。

それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。

なんとなくはぐらかされているような気がする。
で、マルクスはこう考える。

 たとえ、<かれ>が、個人の内部でエピクロス風に<死>と<生>を断層だとおもっていても、<かれ>の死は、<かれ>と他人との関係で表現されるほかはない。マルクスにとっては、<かれ>の<死>は、根源的には<かれ>と<自然>とのあいだのぬきさしならない<疎外>関係の死としてあらわれる。そして、その根源的関係の表象として、はじめて<かれ>と他人との関係として現実にあらわれるのである。

この幻想性をわたしたちはエピクロスのように切りすてることができない。むしろ、この幻想性が厄介なのだ。

・・・神は、人間が自己意識を無限であり、至上であるとかんがえる意識の対象化されたもので、もともと人間の自己意識のなかにしか住んでいないからである。
 人間が<宗教>の意識のうちでやることは、じぶんの本質を対象化し、この対象化した本質を、ふたたびじぶんの対象にするという過程である。

この本と、ジョルジュ・バタイユを丹念に読めば、宗教というものをかなりはっきりと概観することが出来そうだ。
つまり

マルクスは、宗教、法、国家という幻想性と幻想的な共同性についてかんがえつくし、ある意味でこの幻想性の起源でありながら、この幻想性と対立する市民社会の構造としての経済的なカテゴリーの骨組を定め、そしてこれらの考察の根源にあるかれ自身の<自然>哲学を、三位一体として環のようにすびつけ、からみあわせながらひとつの体系を完結したのである。

中沢新一は解説にこう書いている。

マルクスという「千年にいちどあらわれるかどうかという思想の巨匠」の、巨大な知的活動を突き動かしていたのは、人間の心の仕組みそのものに深く結びついた「幻想性」と、その幻想性を否定する「象徴的なもの」がつくりあげる市民社会の構造とが、ボロメオの輪のようにひとつに結びあってつくる、統一核の運動と展開を見定めようとする強烈な欲望であった。「マルクスその人」の探求がむかっていたこの「三位一体」をなすものは、人類の心とそれが生みだすものすべての本質をあらわしている。だからこそ、『資本論』に結実するマルクスの探求は偉大なのであって、奇妙なことにそのことを世の中の「マルクス主義者」は、ほとんど理解していないのだ。
 私は吉本隆明の『カール・マルクス』という本を、そのように読むことによって、重苦しい政治の季節をくぐり抜けることができたのだった。そしてこんなにも平易な文章によって、空恐ろしいほどに深い真実をあきらかにしてみせる吉本隆明の力量に、なによりも圧倒された。あとにもさきにも、日本にもヨーロッパにも、これほどに深いマルクス論に、私は出会ったことがない。