郵政民営化の見直しについて

郵政民営化の見直しは、単に鳩山政権にとってというより、民主党にとって大きな癌の萌芽になりかねないと思う。
民主党が大勝した政権交代選挙のときには、郵政はあまりおおきな争点にはならなかった。民主党のスタンスもあいまいだったので、結局のところ、郵政民営化はそのまま継続するのだろうと予想していたが、亀井静香が郵政金融担当大臣になったあたりから、雲行きがおかしくなった。
その人事の目的として私の考えたことは、参議院での国民新党の協力を得ることと、郵政民営化見直しという汚れ仕事を亀井静香に押し付けることの二つ。
亀井静香は、森喜朗、野中弘務とともに細川政権の瓦解を画策した三人組のひとりである。小沢一郎が彼を信頼しているとは到底思えない。
亀井静香が郵政や金融をどうかき回そうが次の参議院選挙までで、そのときに責任を問うかたちで会派を解消すれば、郵政問題と国民新党がセットで片付く。それまではある程度のムチャクチャには目をつぶろうと考えていると私は読んでいた。
しかし、その予想も斉藤次郎日本郵政社長就任あたりから、またすこし保留を余儀なくされている。実質、財政投融資を復活させようとしているらしいことが明らかになってきたからだ。
懸念するところとしては、郵貯銀行の300兆円の金を、誰かが、自分の手に握ろうと画策しているのではないかとも推測できることだ。(それが亀井静香であったらと思うと吐き気がするが)300兆ものカネが、国会の監視も銀行法の適用も受けないのだから、その金を手にしたものは、強大な集票マシンを手に入れたことになる。
もしそういう密室の政治手法が復活することになると、それ自体が今回の政権交代の内部崩壊の兆しになりかねない。
本来なら、この郵政民営化見直しは、‘野党’自民党がもっとも攻撃しなければおかしいはずなのだけれど、つい半年前、もうひとりの鳩山がほとんど同じことをやろうとしたので、党として批判もできまいというものだ。

郵政民営化は、自民党がそれを最大の争点に掲げて選挙を戦い、296議席という圧倒的な国民の支持を得た政策だった。当然、その実現に努力することが、国民の信託を得た政党の責務であったはずだが、麻生太郎とその側近(それがとりもなおさず今の自民党だが)は、国民に信を問うこともなく、勝手に改革路線を骨抜きにしていったことは、以前に何度も書いた。
あの時点で、自民党は政党として死んだと思う。
いま、自民党は鳩山政権をスキャンダルを頼りに攻撃しようとしている。16年前に細川政権をつぶした同じやり方の焼き直しだが、そのころの当事者、野中弘務は「あれは実際は辞任するほどのことではなかった」と、テレビのインタビューで告白していた。いまの自民党議員も、同じように思いつつ追求しているはず。国民不在の政争、自民党はこれからもそれを続けていくのだろう。
自己改革を成し遂げられない限り、(おそらく永遠にできない)自民党はジリ貧だろう。
だからこそ、亀井静香の暴走は突出して奇異に見える。民主党の他の政策とまるで整合性がない。早期治療が必要だと思う。

小泉竹中改革を攻撃してきた人たちは、「格差社会」というスローガンのほかには論理を持たないように見える。これでは、ワンフレーズ・ポリティクスどころか‘ワンワード・クリティーク’だ。「格差社会」などというその言葉自体がプロパガンダにすぎないと私は思っている。その定義がまずはっきりしないし、役人のさじ加減で、数字や基準をいじればどうにでもあやつれる。
そもそも格差のない社会なんて存在しないのだし、だから、現にある任意の格差を取り上げて「格差社会だ」と叫んでまわれば誰でも巧妙に‘狼と少年’になれる。
周りの人とちょっとでも違っていたら不安でたまらない日本人をあやつるには、「格差社会」は、非常に有効な‘狼’ではあった。
竹中平蔵が、今回の郵政民営化見直しを批判している点は次の三点だと思う。
1、密室性
郵政民営化見直しがわずか6日間で、しかも密室で決定されたそのプロセス。
(郵政が民営化されたときは一年をかけて議論され、その議事録はすべて公開された。)
2、中途半端な民営化
民営化見直しといいながら、民営化なのか再国営化なのかはっきりしないこと。
(今回の見直しは‘中途半端な民営化’で郵便貯金300兆円の扱いは、事実上、誰かの恣意的な管理の下に置かれることになる。)
3、郵政の破綻の惧れ
郵便事業が先細っていくのは目に見えている。JALや国鉄の実例を目の前にして、なぜ民営化を見直すのか意味がわからない。
また、金融部門でも財投が復活し正確なリスク判断が行われず、政策的な金融が横行すれば、郵貯銀行は‘第二の新銀行東京’になりかねない。
しかも、株と資産の売却を凍結、民営化しないので納税はゼロ。破綻すれば国税をつぎ込むしかなくなる。

マスコミのムードを見ていると、一時のヒステリックな小泉竹中批判は終息しつつあるように見える。
前にも書いたが、この1〜2年の小泉竹中批判は、かつての高遠菜穂子さんたちの事件、イラク人質事件のバッシングに共通するものを感じさせる。
森永卓郎が「朝まで生テレビ」で絶叫した何かにとり憑かれたような異様な表情は記憶から拭い去りがたい。
なぜあの男はあんなバカなことを叫んで平気だったのか。また、なぜそれに同調する人がいるのか。
知性の問題ではないはずだ。ちょっと考えればウソだと分かることだ。
大衆には共通に信じたいウソがあって、それを守るためには誰でも血祭りに上げるということなのだろうか。
しかし、変な話だけれど、大衆がけして多数派というわけでもないということもわかった。多数少数とは別の次元で大衆心理は動くようである。
そして残念ながら、マスコミのマスは大衆と同義だということもわかった。