12月の巻頭詩



 乃木坂倶樂部


十二月また來れり。
なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み
荒漠たる洋室の中
壁に寢臺(べつと)を寄せてさびしく眠れり。
わが思惟するものは何ぞや
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如くに飢ゑたるかな。
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ盡せり。
いかなれば追はるる如く
歳暮の忙がしき街を憂ひ迷ひて
晝もなほ酒場の椅子に醉はむとするぞ。
虚空を翔け行く鳥の如く
情緒もまた久しき過去に消え去るべし。


十二月また來れり
なんぞこの冬の寒きや。
訪ふものは扉(どあ)を叩(の)つくし
われの懶惰を見て憐れみ去れども
石炭もなく煖爐もなく
白堊の荒漠たる洋室の中
我れひとり寢臺(べつと)に醒めて
白晝(ひる)もなほ熊の如くに眠れるなり。

巻頭詩っていったって‘なんだそれ?’てなことだけど、まあね。
12月になるとこの詩が頭に浮かぶ。過去にも上げたような気がしていたけれど、していないようなのでともかく。
ごく若いころ、中学生とか、そのくらいだったと思う。「沼沢地方」とか、「氷島」のなかのこの詩とかを萩原朔太郎自身が朗読した音源を聞いたことがある気がしているのだけれど、今となっては検証しようがないかも。
あっても不思議ではない。「氷島」のなかには‘―朗吟のために―’なんて断り書きがついている詩もあるし。「氷島」の詩は全般に声に出して読むことが前提として書かれている気がする。
「石もて蛇を殺すごとく
ひとつの輪廻を断絶して」
とか
「いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。」
とか
意味もわからないまま今でも暗誦できる詩も多い。
「十二月また来たれり
なんぞこの冬の寒きや」
しかし、今日は暖かな日だった。
関東平野の乾いた冬が私はきっと好きでしょうね。空が高くて。雲の流れが速くてね。
富山に長く暮らしたので、私は関東の冬が乾いているその意味が肌でわかる。冬の風は、立山連峰の向こうにすべての雲と雪を捨ててくるのだ。
関東平野の明るい冬の向こう側に、私には富山の暗い冬が見える。夜の雪道で、すれ違うダンプが浴びせかける雪の重さが今でも思い出せる気がする。