ボルベール

ペネロペ・クルスの「ボルベール」をDVDで観た。
男性としては複雑な心境。
無精ひげで、シャツの胸をはだけた感じのラテン系チョイワルな男たちは、個性としてでなく、情報として存在しているのみなのだろうか。
男とはこうあるべきという固定観念(ある意味ではそれはうるわしき理想像なのだが)が、結局男女双方を苦しめているように見える。
父子相姦と父殺しというエディプス王以来の古典的テーマがが扱われているのだけれど、父を殺すことにほとんど罪悪感が存在しないことに注目したい。
娘を犯すような父は殺されても当然だとたしかに思うけれど、しかし、この罪悪感のなさは、男が‘父’あるいは‘夫’としての情報としてしか存在していず、ひとりの人としての個性が擦り切れてしまっているからなんだろう。
家庭でも、他の人間関係でも、その関係における役割に、個性を完全に置換してしまったとき、人は人としての尊厳を失うのかもしれない。
この物語の女たちの底抜けな明るさは、そういう息苦しい人間関係を受動的に生きながらも、そこに露呈する矛盾や亀裂を、女は、たくましく、しかもあっさりと飛び越えていってしまうからだろう。
男は‘男’という情報にしがみついている。しかし、女は、いざとなれば‘女’という情報をあっさりと脱ぎ捨ててしまう。女はそれを脱ぎ捨てても結局女なのである。
男は‘男’を脱ぎ捨てると自分が何かわからなくなってしまう。
以前、中村うさぎ仮面ライダーについて、男がどういうわけで無機質な節足動物に変身したいのか理解できないと書いていた。
男は‘男’という情報に自己の存在証明をかけている。その‘男’とは、つまりは仮面ライダーにすぎない。仮面ライダーは架空の正義の味方だが、そもそも正義そのものが架空であっても、多くの‘男’は蛾が炎にひきつけられるようにそこに群がる。
そういうときには論理的な説得は功を奏さない。後でみっともないだけだと思うけどね。
私自身は、男らしくないことを、ひそかに誇りに思っている。