「イングロリアスバスターズ」

knockeye2009-12-26

今日は電車の中で、変なふたり連れと乗り合わせてしまった。
土曜日の午前中だからそんなにこんでいるというわけではなかったのに、ある駅で乗ってきたその二人連れのうちのちいちゃいおばさんが、まだ電車が動かないうちに、いきなり私の靴の端を踏んだ。そしてその姿勢のまま微動だにしない。
多くの見知らぬ人と空間を共有する車内でトラブルが起こらないのは、人は電車に乗るとき、良くも悪くも、自分自身を運ばれる物資として疎外するからである。普通の人は乗り込んだ電車の中で、無意識に自分のいるべきポジションを確保する。常識人も傍若無人な若者も、ちょっと悪ぶった人も悪臭を放つ人も、それなりにその車内で違和感のない居場所をみつける。
ところが、そのおばさんにはその意識が欠落しているらしく、立っている位置といい、向きといい、右にも左にも後ろにも、全方向に少しずつジャマになっていた。
あまりにも気持ちが悪いので、次の駅で人が動いたときに私は向かい側に逃げた。
そしたら今度は、そのつれの男が手に持ったトートバッグが脛にあたり始めた。身動きも取れないほど混んでいるときなら気にならないだろうけれど、そうでもないので電車が揺れるたびにこつこつあたる。網棚にのせてくれればいいのにと思いつつ、私はホンの数センチだが足を動かす。それでもしばらくするとまた当たりはじめる。いくつか駅をすぎるたびに少しずつ逃げるのだけれど、またすぐに当たりはじめる。ずっと不快だったのだけれど、ある駅をすぎたときに‘アレ?こいつ、ワザとか!’と気がついた。
その瞬間に、痛みは消えないけど不快感は消えた。このふたり連れが自分の理解の範囲に分類できたからである。
‘ああこの種類ね’
特に、名付けてはいないけれど、この種類の人間には今までも何度か出会ったことがあった。こういう人間もいると割り切るしかない種類の人間で、人格として理解する必要がなく、不確定要因として理解しておけばいい、そういう人間もたしかに存在する。
もし、社会に対して、ニュートラルで論理的に関わりあうことができなくなったら、自分もああいう人間に仲間入りするのだと肝に銘じておくべきだろう。
クリスマスがすぎたばかりのこの時期、街はふと物語を失う。なんとなく淀んだ空気の中、わたしも残務処理のような気分で見逃してしまった映画などを観に、あまり行かない映画館にでかけた。
新宿武蔵野館という新宿駅の東口に面した映画館。
東郷青児記念美術館が西口なので東口にはあまり縁がない。それに新宿って駅はいまだによくわからない。
観にいったのはクエンティン・タランティーノの「イングロリアスバスターズ」。
タランティーノは「レザボアドッグス」と「パルプフィクション」でファンになった。だから、あの衝撃を超えるのはむずかしいのもまたたしかなのである。
「イングロリアスバスターズ」の場合、それはどの部分かというと、大きなテーマにトリックスター的なアプローチをしているところかな。うまくいえないけれど。
ただ、タランティーノ自身が「面白くなかったらお金を返す」とまで言うだけあって充分に面白かった。
「しんぼる」についてもそう思ったのだけれど、タランティーノにしても松本人志にしても、彼らは彼ら自身の名前でハードルが上がってしまう。それも‘かなり’上がってしまう。もしこの映画が受けていないのだとすれば、観客の期待値が高すぎるんだと思うな。