レースリーダー

今日はよくある休日の過ごし方をした。つまり、何もしなかった。もっと正確に言えば、大掃除の予定をキャンセルして、何もしなかった。
そういう日には読書がすすむことになっていて、これは今年の読書納めになるかな。
『レースリーダー』

レースリーダー (ヴィレッジブックス)

レースリーダー (ヴィレッジブックス)

厚みのある心理サスペンスと、あっと驚く結末、レースリーディングという魅力的な仕掛けもさることながら、この小説にリアリティーを与えているのは、マサチューセッツ州セーラムという港町の雰囲気だろう。
17世紀後半に魔女狩りで19名もの犠牲者をだした。今ではその歴史を観光資源としていて、特にハロウインのころには、魔女の町として観光客でにぎわうのだそうだ。
魔女狩り’って「アハハ」とちょっと寒めの笑い、それが健康な常識人の反応というものだろう。いまでも17世紀の人たちと同じように、魔女だ神だと大真面目に騒ぐ人がいたとしたら、魔女より神よりその人たちのほうがはるかにあぶない。
少し前までは、そういう魔女だの神だのという世界を大真面目に書いて見せるのが‘本の世界’だった。でも今は、そういう世界を大真面目に騒ぐ人たちを描くことのほうが、興味深いことになってきている。本の世界が見渡せる地平が広くなったということなのかもしれない。その地平線が現実と虚構の境目なのだとすれば、現実と虚構の境目が遠くになってきているということにもなるだろうか。
登場する観光客の態度が妙にリアルなのだ。この小説に書かれているような場面に、私が観光客として遭遇したとしても、おそらくこの小説の中の観光客のような態度しかとれないだろう。
たとえばオウム真理教の起こしたさまざまな事件をかんがえてみても、私には未だに冗談としか思えない。その同じ視線でもう少し遠くまで目をやってみれば、靖国神社だって同じように冗談にしか見えない。片っ方が真面目で片っ方が冗談ということはないはずだと思うし、大きな声ではいえないものの、実はそれが大多数の人の意見だと私は思っている。(何が‘英霊’ダヨ?)
しかし、もしかしたら日本人が靖国神社について健康的な判断を取り戻すためには、セーラムの人たちが魔女狩りについて正気に戻るのに必要だったと同じくらいの時間がかかるのかもしれない。もし、100年後も靖国神社に参拝する政治家がいっぱいだとしたら、たぶん、この国は幽霊屋敷になってるな。できれば早めにスリッパでたたいてティッシュにくるんで捨てた方がいいと思う。
それでも、そういう社会の不健康な部分がなくなるということはないのだろうと、多くの人が覚悟しているのもたしかだろう。いろんなかたちに姿を変えて世の中に害毒を撒き散らし続けるだろうと。
こういう文章がある。

・・・身よりのない女だから、ちょっと変わり者だから、髪が赤いから、守ってくれる子どもや夫がいないから、あるいは、誰かが目をつけた財産の所有者だから、そんな理由で無実の人々が魔女として家から引きずり出された時代に、私たちは引き戻されている。

これはもちろん小説の中のあるシーンだが、しかし、妙に同時代的な共感を覚えてしまう。グァンタナモの収容所とか、わが国ではイラク人質事件とか、2ちゃんねる麻生太郎祭りとか。
考えてみれば、この手の集団心理に踊らされている人間は、物事がうまくいかなくなると他人のせいにするのも当然かもしれない。ほんとに他人のせいなんだから。
近代の終焉という意識が共有され始めているとおもう。そのとき、まわりを見回してみると、私たちの世界観は意外なほど中世の迷信から離れていないという事実に愕然とさせられることが多くなっている。私たちは日本人なのだから、古代の日本人の迷妄から出発しなければならないのは仕方ないと思う。しかし、そこから少しでも先に進めるはずだと思う。古代人の迷妄の中にとどまって、「これが日本の文化だ」とか叫んで、そこから出ようとしない態度は見ていて気恥ずかしい。