‘格差社会’

今まで何度も書いてきていることだけれども、私は‘格差社会’なんて言葉を全く信じていない。
専門家はいろいろなデータを上げていろいろなことを言うだろうけれど、それは後付のデータであって、‘格差社会’という言葉のほうが先走って一人歩きしたことは誰もが知っているはずである。
それに、そもそも格差のない社会なんてあるはずがない。野口悠紀雄が指摘しているように成長そのものが格差を内在している。つまり、月収一律8万円の社会がよいか、80万〜8億円の差がある社会がよいかを考えれば、問題は格差ではなく貧困であるということが分かるはずだ。
そして、‘格差社会’という言葉で私がいちばん引っかかることは、たとえば、アメリカ国民とアフガン難民を比較すれば、そこにはもちろん厳然とした格差がある。この格差については誰も異論を挟まないはずだ。それでは、私たちの日本という国はアメリカとアフガンのどちらに近いのか?
伊藤和也のように、実際にアフガニスタンでボランティアとして働き命を投げ出している人もいる。
それなのに、そんな世界の歴然とした格差には目も向けずに、世界でも例外的な豊かさを享受しながら、小泉=竹中のせいで‘格差社会’になったとかほざいている。それどころか、ボランティアとして働いている人が現地で人質に取られればバッシングの嵐を浴びせかけさえする。
格差社会’論は、‘鎖国の民’に特有な集団ヒステリーにすぎないと私は思っている。
島国という環境と日本語という特殊な言語で隔絶されているためか、わたしたちの国は、そういう集団ヒステリーを過去にも何度か繰り返してきている。
今という時代は、高度成長を広義にとらえれば、明治以来百年以上続いた時代の転換期なので、そういう集団ヒステリーが起こりがちであることは意識しておいた方がよいと思う。