事件といえるかもしれない号

knockeye2010-02-19

文藝春秋 2010年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2010年 03月号 [雑誌]

文芸春秋の2010年3月号は買って保存しておくといいかもしれない。
時代がうねっている感じをよく伝えている。
まず、渡辺喜美の「わが第三極宣言」が、現在の民主党の迷走ぶりをかなり鋭く批判分析している。

 民主党も、当初は国家戦略局を作ると言って意気込んでいました。ところが、菅直人副総理が国家戦略局を担当しながら政調会長を兼任するという構想は、小沢幹事長の反対で認められず、あっという間に尻すぼみになりました。
(略)
・・・昨秋の事業仕分けでは、当初は三十二人の議員をメンバーに選び、鳩山首相自ら
「必殺仕分け人として頑張ってほしい」
と激励しながら、小沢幹事長の鶴の一声で、仕分け人は七人に減らされてしまいました。まさにこの鳩山内閣の漬物石のようになっている存在が、真の政治主導実現の最大の阻害要因になっているのです。

そして、佐藤優の連載「古典でしか世界は読めない」が、クラウゼヴィッツの『戦争論』を引きつつ検察と小沢一郎泥仕合を分析して見せている。

 繰り返すが、これは普通の日本国民とは関係のない「あの人たちの喧嘩」である。キングコブラとハブの喧嘩で、どちらかを応援する気持ちにはまったくならない。
 ただし、ぎりぎりのところで考えると、小沢氏とその一味を日本国民が選挙で排除することが可能なのに対し、官僚である検察官を日本国民の意思で排除するメカニズムは存在しない。
 政権与党と検察が殲滅戦を展開するという前代未聞の事態が生じ、日本の国家機能が麻痺しはじめている。

さらに、福田和也の「小沢一郎のちいさな『器量』」という投稿がある。
‘器量’という言葉が死語でないか心配ではあるものの、最初の2ページはほとんどそのまま丸写しにしたいほどである。

・・・与党でいることが自己目的化してしまい、権力が権力維持のために振舞うようになった。選挙に勝ちさえすれば何をやってもいい、という価値観が蔓延し、野中弘務氏や青木幹雄氏のような、権力闘争にのみ長けた政治家が政界を牛耳るようになっていった。もちろん、小沢氏もその一人だ。
(略)
小沢一郎は権力を使って何をしようとしているのか、政権交代から時が経っても、それが見えてこない、という声をよく聞く。私も同感である。
 確かに目を凝らしてみても、マニフェストの勝手な変更とか土地改良事業費半減に代表されるような夏の参議院選挙で勝つための政策しか目に入ってこない。

先日も書いたとおり、今週はいろいろ忙しくてブログの更新を怠っていたのだが、めったにないことに思わず切抜きしてしまった新聞の記事があった。
鳩山政権が昨年の選挙でマニフェストに掲げた「政策決定の内閣への一元化」を破棄し、政府と党による政策協議機関を設置するという記事だ。
財源不足で公約がなかなか実現できないというならともかく、この公約違反はまったく納得できない。国民との約束を反故にしてかえりみない、小沢一郎の権力志向の証明としか考えられない。
鳩山政権発足当時、どういうわけで亀井静香が郵政と金融を担当する大臣ポストについたのか、その意図が図りかねていろいろ考えてみたものだったけれど、今となってみればあまりにも簡単なことだとわかる。
小沢一郎民主党のだれよりもむしろ亀井静香と気脈が通じるのだ。そして、福田和也の言う‘権力闘争にのみ長けた政治家’の心理として、小泉純一郎に意趣返ししないという選択肢は考えられなかったというだけなのである。
現在、民主党がやっていることは、参院選に勝つために衆院選の公約を踏みにじるというシュールなことだが、果たしてこれが功を奏するのかどうか注目したい。その程度まで日本人がバカなら仕方がない。
また、「『指導者』研究 ひとを動かす言葉の力」という特集があり、塩川正十郎の語る岸信介中曽根康弘が語る土光敏光などもおもしろいが、なかでも、佐々淳行のかたる後藤田正晴が内閣五室の初代室長に訓示した、いわゆる後藤田五訓は

まさに圧巻だった。
一、 省益を忘れ、国益を想え
二、 悪い、本当の事実を報告せよ
三、 勇気を以て意見を具申せよ
四、 自分の仕事でないというなかれ
五、 決定が下ったら従い、命令は実行せよ
 実は、この五訓を裏返したものが、まさに最悪の「官僚主義」に他ならない。

国益を忘れて、省益を想い、都合の悪い事実を隠蔽し、間違っていると分かっていても意見せず、ことが起これば責任逃れ、決定が下ったことにも必ず逃げ道を用意している、いわれてみれば確かに、これは、ここ数年、私たちが目にしてきた官僚の姿だ。
そして、もしかしたら、もっとも重要であるかもしれない記事は、野口悠紀雄の「ついに国債破綻が始まった」という記事である。私は、野口悠紀雄の洞察には信頼を寄せている。
経済問題を素人があれこれするのは危険なことらしいので、内容にふれないが(ふれる力量もないし)ただ、再考すべきだと思うのは、日本を‘格差社会’だと叫んで、高度成長期同様のバラマキを続ける‘とてつもない’政策をこのまま続けていくべきなのかということ。もちろん、国民の大多数が年越し派遣村に暮らすようになれば、そのときは、格差が解消されたともいえるのだろうが。
最後に、芥川賞選評が面白い。
今回は該当作なしだが、候補作のひとつ舞城王太郎の「ビッチマグネット」が全文掲載されている。
村上龍
「今回は全般的に低調で、選考会も盛り上がりに欠けた。」
と書いているが、この「ビッチマグネット」をめぐって、評者によってかなり評価が違っていて面白かった。私は「ビッチマグネット」はともかくとして、「ビッチマグネット」をめぐる選評を全部読んでみることをオススメしたい。
池澤夏樹はこう書いている。

 かつて芥川賞村上春樹吉本ばなな高橋源一郎島田雅彦に賞を出せなかった。今の段階で舞城王太郎がいずれ彼らに並ぶことを保証するつもりはない。そんな予言者のようなことはできない。それでも、今回の受賞作なしという結果の失点は大きいと思う。

しかし、一方で、小川洋子の批判にも説得力がある。
評者全員が、「どうしよう、これ?」と迷っている感じがあって、その迷わせているものが、もしかしたら時代なのかも知れれないと思うのは、先にあげた人たちのいろいろな角度から打ち込まれている時代への分析が、だんだん核に近づいているような奇妙な予感にみちているせいかもしれない。
今月号はお買い得だと思いますよ。