優秀な官僚主導

湯浅誠が内閣参与として、年越し派遣村のために文部科学省の空き施設を借りるいきさつがテレビでルポされていた。
笑ったのは、館内放送のスイッチを入れるのに文部科学省厚生労働省で話がつかず、最後に、菅直人副総理に直談判してようやく使えるようになったというところ。
核兵器のスイッチじゃなく、館内放送のスイッチをONにするのに、‘副総理’が出向かなければならないという、その状況は、やはり、立花隆がいうような‘劣悪な政治主導より優秀な官僚主導’なんていえる状況ではなく、もはや官僚主義も末期の末期症状を迎えているということをまざまざと見せ付けていた。
これも前に書いたかもしれないけれど、坂本龍一がアメリカで免許証をとったとき、もらったパンフレットに「ときには法を犯すことをためらわないように」みたいなことを書いてあったのに感動して、自著の題名にも使っている。「セルダム・イリーガル」という本。
実際に車を運転しているすべての人が知っているはずだけれど、道路交通法さえ守っていれば絶対安全というわけでもなければ、命の保証を国がしてくれるわけでもない。
逆に、この国のクルマ全部が、制限速度遵守で通行したとしたら、かなりイライラした国になると思うけれどどうだろうか。
ところが、今のこの国の政治の現場がまさにそれだと言えるのだろう。
『「法令遵守」が日本を滅ぼす』は、郷原信郎の本だけれど、硬直した教条主義が国を窒息させている一方で、その法の抜け道に通じているだけの官僚が、政治を私しているのが現状だろうと思う。
官僚主義は棄却されなければならない。
私はそのつもりで民主党に票を投じたのだけれど、どうやら小沢一郎にはそのつもりはさらさらなかったらしく、政権をとるや否や、菅直人や仙石由人との権力抗争をおっぱじめてしまう。
国民が付託したせっかくの政権交代を、みみっちい権力抗争に変えてしまう。
福田和也がいうようにたしかに小沢一郎は器が小さいのだろう。野中弘務と同じように総理にいちばん近いところまではいけるが、総理にはなれない。それがこの人の限界であったらしい。
去年の西松事件のとき、私はこのブログで、「逮捕されても獄中から選挙を戦え」と半分マジで書いた。でも、小沢一郎は逮捕もされなかったし、党首で戦い抜くこともしなかった。
巨視的に見れば、そういうことをさして「器が小さい」というだろう。たしかに。