下流志向

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

「それ勉強して何の役に立つの?」
という古典的愚問には、わたしはごく若いときから即答できた。
「じゃあ、てめぇ自身は何の役に立つんだ?」
ただ、残念ながら誰も私にはこの愚問をしてくれたことがない。都市伝説のようなものだと思っていた。
もし、有用か無用かだけを森羅万象の基準にするなら、一行の数式、一文字の漢字より有用である人間なんて滅多にいない。
ましてや、「勉強がなんの役に立つの?」なんて、恥ずかしげもなくベタな質問を口に出来る人間は、まとめて焼却炉に投げ込まれても、気にかける人とてないだろう、もし、有用か無用かだけがすべてならば。
そもそも、学ぶことの背景には、自己の存在意義への問いかけがあるはずだ。
なんであれ他者に対し
「それに何の意味があるの?」
と問う人間は、自分の存在価値を疑ったことがないに違いない。何の根拠もなく自分の存在意義を確信していられるのは子どもだけだし、その意味でこの愚問は、とりもなおさず、自分がまだ子どもであると宣言しているようなものだ。

きのう紹介した橋本治の対談集で、高橋源一郎が「目からウロコ」と言っていたので、買ってみたのが、この本。
著者が武道家でもあるということもあり、オイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」を思い出した。
あの本は、千年に一度あるかないかの、東洋と西洋の知性の幸福な邂逅というべき内容で、ああいう体験をすれば、月の虹とかそんなものを見た人と同じように、人に語らずにはおられなかっただろう、そういう本である。今でも岩波文庫で手に入るみたいだから、未読の方は読んでみて損なことはない。
内田樹のこの本は、講演の口述筆記である点も「日本の弓術」と似ている。

第一章 学びからの逃走
第二章 リスク社会の弱者たち
第三章 労働からの逃走
第四章 質疑応答

特に第一章は、わたくし‘学校’というものから遠ざかって久しいために、一般的な学校の現場を知ってびっくりしてしまった。

 それまで新聞で読んだりして、「そういうことがあるらしい」と話では聞いていたのですけれども、要するに全級一斉の授業というものが成立していないわけです。教壇の近くの十人ぐらいだけが、先生がしゃべっている授業を聞いていて、後ろの方の、残りの二十五人ぐらいはほとんど授業を聞かないで、居眠りしたり、立って歩き回ったり、おしゃべりをしたり、マンガを読んだりしている。授業参観ですから、当然後ろにはその子どもたちの親が来ているわけです。ずらっと親が並んでいる前で、先生が教壇で授業をやっているところで、子どもたちがふらふらと立ち歩いている。僕にはよくそのことの意味がわかりませんでした。

これは、著者の授業参観の体験。
また、著者が担当するゼミの学生が教育実習にいった学校での授業を垣間見た体験は、

・・・生徒たち全員が、これ以上だらけた姿勢を取ることは、人間工学的に不可能ではないかと思われるほどだらけた姿勢で立ち上がり、いやいや礼をし、のろのろ着席する。僕はこの精密な身体技法にほとんど感動してしまいました。「きちんとした動作をしたせいで、うっかり教師に敬意を示していると誤解される余地がないように」この生徒たちは全力を尽くしている。ただ怠惰であるだけだったら、人間はこれほど緩慢には動けません。必要以上に緩慢に動くほうがもちろん筋肉や骨格への負担は大きい。ですから、これを生徒たちが生理的に弛緩していると解釈してはならない。これは明確な意図をもって行われている記号的な身体運用なんです。

目の前で見ているものの意味が分からない。衝撃的である。
この本は、その意味を読み解いていく、いわば、知的冒険譚である。

・・・子どもたちはいまや経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説くまえに、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校へ入って教育の「客体」にされることは、子どもたちにまったく不本意なことであろう。

著者自身が、<過去10年間教育について読んできた中でもっとも啓発的な言葉>と紹介している、諏訪哲二の『オレ様化する子どもたち』のこの言葉がここに展開される論理の重要な核のひとつであるだろう。
今の子どもたちは、ものごころついたときからすでに消費的主体としての自我を確立してしまっているために、受けたくもない授業を受けるという‘対価’を払って、なぜ‘学び’を‘買わなければならないのか’がわからない。したがって‘何の意味があるかわからない’欲しくもない‘学び’のために不当に‘対価’を払うまいと努力する。
日本の子どもたちにとって、学校がそういう場所にすぎず、その背後に、その子どもたちと同じメンタリティーをもった、いわゆるモンスターペアレントが控えているのだとしたら、日本という国の社会がどのようなものになるのかが、ある程度分かる気がしないだろうか。

無意識的かもしれませんが、競争ということを優先的に配慮した場合、同学齢集団の学力がどんどん下がることを、子ども自身もその親たちも実は願っているのです。
(略)
その無意識な欲望が子どもたちの学力低下心理的に後押ししていることを誰も気づいていないだけです。

野口悠紀雄が指摘するように、戦後も生き残った1940年体制が高度経済成長をささえたのだが、先進国と肩を並べて目の前のロールモデルがなくなったとき、この官僚主導体制は内側からメルトダウンし始めた。その一端がこの学力低下に顕れていると見ていいのだろうと思う。
餌をなくした盲目の蛇たちが‘共食い’をはじめたとしても驚くにあたらない。
今まで何度も書いてきたように、私は日本を‘格差社会’と呼ぶことにどうしてもひっかかりがあった。
もちろん、格差のない社会はないし、日本にも格差があるには違いないだろうが、それでも、‘格差社会’という視点は、今の日本の諸問題を読み解くキーワードにはならなくて、むしろ、重要なポイントを覆い隠しているのではないかと思ってきた。そこで、日本はむしろ‘格差社会’ではなく‘格差過敏社会’だなどと書いたりもした。
しかし、教育の現場で、‘努力して学びから逃走しようとする子どもたち’と、限定されたテリトリーで優位に立つことを最上の課題として‘クレーマー化するモンスターペアレントたち’が、美しい日本の親子の実像であるなら、横並びのまどろみから揺り起こされることへの憎悪こそ、ヒステリックな‘格差社会’という合唱の深層心理だったのだろう。