ルートヴィヒ美術館展

ドイツのケルンにあるこの美術館の収蔵品の根幹をなすのはペーターとイレーネのルートヴィヒ夫妻のコレクションだそうだ。
ピカソと20世紀美術の巨匠たち」と銘打ってはいるが、そういうおげさな感じではなく、このご夫妻のコレクションを見せてもらっている親密な雰囲気。「眼福にあずかる」というだろうか。
たとえば、ピカソも<読書する女の顔>なんていうピカソらしいものもある一方で、<モンマルトルのカフェ>なんて、室内光の微妙さが、ピカソというよりドガを思わせる。
また、エミール・ノルデの<月夜>などは、先入観も手伝ってか、まるでドイツロマン主義の末裔かと思うほどの抒情をたたえている。
コレクション全体に夫妻の好みが色濃く反映しているのはもちろんのことで、そして、わたしはそれを気に入った。
多岐にわたる20世紀の美術を、作る側の個性からではなく、それを収集する側の個性から眺めてみるのも面白い。
展示の並び方もうまいと思った。それも、こういう風に見せたいという収集家の発想のように思える。
最初に、ピカソマティス、ブラック、ヴラマンク、クレー、カンディンスキーモディリアーニシャガールなど、名だたる名画をならべて、つぎに戦後の抽象絵画アンフォルメルの絵がくる。このあたりはわたしなど名前も知らない。
‘んー・・・ちょっとどうかな?’
と思っていると、つぎに、新しい具象絵画の人たちが来て、最後にアンディ・ウォーホルやジャスパー・ジョーンズなどのポップアートでしめくくっている。
考え抜かれたコース料理のようで、ごちそうさまでしたという感じ。
こういう風に並べられると、ジャスパー・ジョーンズの‘的'の絵も
「それがどうした?」
とか思わなくて、アンフォルメルのクッチャクチャした後に見ると‘すっきりしていいな’という気になる。<NO>という作品なんか素直に‘いいな’と思った。
余談だけれど、いわゆるアンフォルメルの即興的な身体表現を作品に定着させた作品を見ていて、長谷川等伯の松林図屏風は、部分だけを見るとまるでアンフォルメルなのに、ひいて全体を見ると雨に煙る松林にしか見えないところがすごいと改めて思った。自発的な身体表現が、訓練され制御されてひとつの図像に焦点を結ぶということでなければ、やはりいけないのではないかと思う。
最初から型にはまった表現でもダメだし、ただ自由奔放なだけの表現でもダメで、自由奔放な表現を結果として形にするという、そのことはそう簡単にできることではなさそうで、長谷川等伯の松林図屏風がいつ見ても新鮮なのは、それを高いレベルで成し遂げているからではないかと思った。