歌川国芳展

knockeye2010-04-18

ずっと行こうと思っていた歌川国芳展だけれど、先月やたらと忙しくて行けず、今日やっとかけつけた。
それで、ふと気がついてみると、この展覧会、前期後期に分かれていて、今日が前期の最終日だった。すべり込みで間に合ったわけだった。
府中市立美術館はこのパターンが多くて、去年の「山水に遊ぶ 江戸絵画の風景250年」など前期、後期A、後期Bと三回に分かれていた。一回ずつの観覧料は確かに安いのだけれど、見逃すおそれがあるし、交通費もかさむ。
わたしの在処から府中市立美術館へは微妙に行きづらい。美術館の最寄りの駅の京王線の東府中にいくには、小田急を登戸でJR南武線に乗り換え、府中本町をひと駅やりすごして分倍河原京王線に乗り換えなければならない。府中本町で降りるとちょっと歩く。
今まではそれを歩いていたのだけれど、なにせ昨日おとといの猛烈な寒波がトラウマになってしまって、今日はなるべく歩きますまいという気持ち。早春のようなさわやかな日だったけれど。
府中美術館は府中の森公園という、なかなか大きめの森林公園の中にある。美術館に続く道は長い桜並木で、これはもうさすがに散っているが、どういうわけかヤマザクラがちょうど見ごろだった。
平安の歌人たちが愛でた桜は、ソメイヨシノではなくこのヤマザクラだったことはこころにとめておくべきと思っている。

国芳は、河治和香の『国芳一門浮世絵草紙』を読んでから、妙に親近感を感じてしまっている。
実際、江戸の庶民に愛された画家の筆頭ではないだろうか。
天保の改革を風刺したと、出版当時からうわさされたという<源頼光公館土蜘作妖怪図>の、どこかユーモラスであるとはいうものの、奇怪で面妖な妖怪たちのほうに、庶民が自分の姿を投影した、そのことが頼もしく思える。
当時の江戸が、都会的な価値観を持っていたことを証ししていると思う。かっこつけて、えらそうなやつらは嫌われていた。江戸っ子の‘心意気’みたいなことが視覚からわかる。このころの江戸庶民とくらべて、今の日本人のほうが、こころが自由かといえばどうにもおぼつかない。
他の絵を見ていくと、とにかくその発想の多彩さに圧倒されてしまう。
以前にこのブログでも紹介した<猫の当て字>。あれは‘たこ’だったが、今回は‘ふぐ’が展示されていた。もし、この絵を知らずに字面だけ読んでいる人には、何のことだか想像つかないと思う。
同様にスキャンしてアップした<金魚尽くし>も一度見たら忘れられない。(スキャナーがいう事をきかなくなってひさしい。デバイスマネージャーではちゃんと動くし、ドライバーソフトも更新したのだけれど。)
今回のポスターにも使われている<みかけはこわいがとんだいいひとだ>なんて、なんであんな絵を描こうと思ったのか分からないくらいだ。

それが行き着くところまでいって、<荷宝蔵壁のむだ書>のシリーズは、もはや名画としか言いようのない。簡略で生き生きとした線には思わず見入らされてしまった。ロートレックを連想してしまったが、そもそもあちらが浮世絵にインスパイアされているわけだから、これは順序が逆というものであろう。
昨年、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで大規模な国芳の展覧会が開催され話題になったそうだ。
http://www.royalacademy.org.uk/exhibitions/kuniyoshi/
その図録がミュージアムショップに売られていた。‘ひぇーっ’という値段(わたしにはね)。好事家はお求めになってもよいのではないか。
展覧会の後期は、5月9日まで。
猫もがんばってます。(?)
http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/kikakuten/kikakuitiran/kuniyoshi/index.html