ユルスナールの靴

先週はまったくブログを更新しなかった。
最近としてはめずらしい。
書くことがなかったわけではないけど、忙しくなってきたせいもあるし、寒暖の差がひどくてからだがまいっているのかもしれない。
それでも更新をサボってしまうとけっこうよくない、というのは、いろんな思いが形にならないまま頭の中にたまってしまう。形にならない思いがたまっていくのは気持ちの悪いことなので、拙いながらでも、また中途半端でも投げ出してしまうのがいい。
読書のペースも落ちている。
この理由も上に同じなのだけれど、最近、浅い時間に眠っちゃうんだよね。
でも、まったく読んでいなかったわけではなくて、須賀敦子の『ユルスナールの靴』を読み終えた。
忙しいさなかに断片的に読んでいたので、最後のほうになってどんどん深くなっていくのに気がついて、しくじったという思い。それで、もう一度読み直しているところ。
読み直してみると、最初のほうでも、もう最後のほうに向けてきちんと的が絞られていた。うっかり読み飛ばすとえらい目にあう。
すべての文章は個人史でしかありえないという、ある意味乱暴で、徹底した態度をとるとしたら、作家の評伝を書くにしても、そこに個人史をからませざるえない。ただ、そういう場合、ふつうは、たとえばブログなんかなら、たんに不勉強のいいわけにすぎないのだけれど、須賀敦子の場合はもちろんそうではなくて、彼女自身の個人史とユルスナールの評伝を等距離に突き放して描くことで、ユニークな比較文化論が彫り出されていると思う。特に「死んだ子どもの肖像」の章まで来るとそれが顕著だと思う。
ジョルダーノ・ブルーノについては、ごく若いころ、たしか、野田又夫の『ルネサンスの思想家たち』で読んで強い印象を受けたのを憶えている。
「求道がないところに異端がないのは当然かもしれないが、精神の働きのないところにも異端は育ちえないという事実を、私たちはあまりにもなおざりにしてきたのではなかったか」
解説を書いている川上弘美も引用しているが、後のほうになってこんな文章が出てくるとは、あまりにも思いがけなかった。