思わぬ来客/1945 日本

knockeye2010-05-06

先日、恵比寿の東京都写真美術館に見に行った<なにものかへのレクイエム>について、日曜美術館で、作者の森村泰昌自身が語っていた。
その中の(思わぬ来客/1945 日本)についての姜尚中との対話の一部を以下に聞き書きした。
森村泰昌「ものすごく、これはほんとに自分の個人史に当てはめた話なので、他の方はどう思われるか分からないけれど、私にとっては、あそこで、昭和天皇のお姿が写ってる、あれは、日本という、‘お母さん’のようなものの象徴で、一方で、大きなマッカーサーがいる、ものすごく上背があって、ものすごくたくましい。これは、ある種、‘お父さん’だと。
というのは、私は日本に育っているけれども、多くのアメリカ的なものに影響を受けていますね、音楽にしても、美術にしてもそうなんですけど。
こんなことを言うと、叱る人はいるかもしれないけれど、その昭和天皇マッカーサーの出会いのシーンは、まるで、おかあさんとお父さんが結婚式を挙げている、そういう写真のように思える。
その結婚は必ずしも祝福される結婚であったかどうかは私は知りませんよ。でも、運命的にそういうものが1945年にあって、そこから始まる戦後の中に自分が生まれたんだという自覚があの一枚の写真からはものすごく感じ取れるんですね。」
姜尚中「僕はやっぱり母親との関係が深かったもので、母親が亡くなった後に、一言でいうと虚脱感があったんですよね。虚脱感と同時に、自分の桎梏から解き放たれたような、悲しいと同時に、これからは自分ひとりで生きてかなきゃいけないっていうこう・・・。
森村さんにとってはお父さんの存在がなくなられた後の、なんかそういう気持ちっていうのはどういう・・・」
森村泰昌「私は逆に、何かをそこから引き受けなければならない・・・、その引き受けなければならないのはね、もちろん私個人の問題としては、父親である、母親である、家族であるという、そういうことであろうと思うんですけど、なにかその、単に個人的なことだけではなくてね、もちろん、父親、母親もそうですし、店もそうですけど、これは歴史の表舞台にはまったく登場しない、そういってよければ、まったく無名の営みなんですね。『これは歴史ではないのか』と、すごくそのとき自覚するようになったんですね。
本来ならば、ある立派な司令室の背景で二人(昭和天皇マッカーサー)が写っているわけですね、写真として。でもそれは、わたしのリアリティーじゃない。私のリアリティーは、やはり、この今にも立ち退きで、地震なんかゆれると真っ先につぶれる、この小さな、そして天然記念物のように古くなった、忘れ去られようとしているこの店、その背景を持ちながら二人が出会っているっていうね、こっちのほうがよっぽど自分にとってリアリティーのある光景なんですよ。」
大阪の商家のほの暗い一隅に、マッカーサー昭和天皇ポートレートを立たせてみるとき、そこに、わたしたちの国のリアリティーが浮かび上がる。
報道からどんどんリアリティーが抜け落ち希薄になっていく中で、芸術家はこのような形で現実をつかまえる。一枚の写真になにか訴えるものを感じたとすればそこには現実があると思う。
昭和天皇マッカーサーの結婚というイメージについては、豊下楢彦の著書
昭和天皇マッカーサー会見」

昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫)

昭和天皇・マッカーサー会見 (岩波現代文庫)


「安保条約の成立 ー吉田外交と天皇外交ー」
安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)

安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)

に、そのリアリティーの裏づけを求めることができることだろう。
また、基地問題をめぐる鳩山由紀夫のタクティクス(そういうものがあるならだけど)が、いかに拙劣であるか痛感できるだろう。
鳩山政権は、上記の二著に書かれている当時の日本外交の失敗を、まるでトレーシングペーパーに重ねるように見事になぞっている。
しかも、当時はその日本の失敗がアメリカを利したが、今回は、アメリカにも都合が悪い。アメリカは呆れているのではないか。なぜなら、鳩山由紀夫外交政策では、日本もアメリかも沖縄県民も、誰ひとり得しない。誰の利益のために政治をしているのかまるで分からない。
友愛をかかげて孤立するお坊っちゃん
おそらく、民主党鳩山由紀夫だけでなく、日本の政治家のほぼ全員が政治のリアリティーを失っている。戦後65年間も、自分たちの頭で戦争責任を考えることをしなかったのだから、むしろ当然の結果だろう。
その意味では、福島瑞穂の言っていることに、もっともリアリティーがある。アメリかも、日本が福島瑞穂のスタンスであれば、むしろ交渉しやすいはずだ。その他の政治家の言っていることはほとんど理解できない。
もっとも、その不可解さは、上の二著に詳しい日米安保成立のプロセスに根を持っているのだけれど。
民主党のマニュフェストは、高度成長経済と冷戦構造を前提とした政治からの転換という思想を、バックボーンに持っていると思ったのだけれど、そうではなく、ただのお飾りだったらしい。
日本の政治が一流であったことは、有史以来一度もないという事実を、改めて痛感させられる。