マネ

この回の日曜美術館はマネの特集で、ゲストはイッセー尾形だった。
マネはジャポニズム印象派に関連付けられて語られることが多かった気がするけど、切り口が一味ちがって面白かった。
マネは正統に逆らって、リアルを描こうとした。リアルであろうとすることはすべての芸術家の本性だろうと思う。
オットー・ディックスの戦場と、マネのパリと、私たちに訴えかけてくるのはつまりそのリアルさなんだろうと思う。
「イッセーさんが現代人を演じられる中で感じる人間像、人間観察というのと、マネがやっていることとなにか共通することはありますか?」
「そうですね、マネは上流階級の人ですから、紳士淑女を描いています。で、何の何某みたいな一人一人の名前はあるんでしょうけれど、なんかこうやって(ブーローニュ=シュル=メールの浜辺)、エアポケットにいるような瞬間を描いている。なんか、名前をはがされた、無名性というんですか、ちゃんとした個人が無名な瞬間を描いているような気がするんですね。
そうすと、おこがましいですけど、私と較べさせていただくならば、(笑)、私はわりと無名の人を演じて、その人が個人に戻る瞬間をネタにしたいなとは、だから、たすきがけみたいな」
「今の話し大変面白いと思ったんですね。つまり、マネの絵にそくしていうと、群集と個人の関係、マネは、個々の人物をクローズアップしてきちんと描いたそういう作品もありますけども、この絵のように、アノニムなひとが並んでたっているとこを描いていると二種類あるんですね。
で、群集というのは、さきほど申し上げたように、近代都市になってはじめて出現した現象で、しかし、個人は必ずしもその中に埋没させるということはないんですね、マネの絵というのは。個人と群集のあいだの拮抗関係、緊張関係というのがマネの中にはあって、群衆は群集としてとらえます。しかし、個人は個人として描く、そういう二面性がありますから、今のお話は非常に面白いですね。」
たかだか女の裸を見たいがために、ギリシャローマの女神を引き合いに出していたルネッサンス以来の習慣に終止符を打つにもマネの出現を待たなければならなかった。
女の裸=ヴィーナスといういびつさに、誰も疑問を感じなかったのは、不思議でもあるし、また人間を感じさせもする。
人間はほうっておくとどんどんリアルになるから、規制が必要なんだという人たちがいるが、しかし実際は、人間はほうっておくとどんどんリアルから遠ざかっていく。ただ、そのことをリアルだと思い込むだけみたいである。