社員旅行

knockeye2010-06-14

この週末、社員旅行にでかけていた。基本的には参加しないことにしているが、今回は北海道でしかも、6月。
‘6月’と‘北海道’が引き起こす、記憶の中の化学反応には、私はとても抗しきれない。
しかしながら、過去を追うものは過去に裏切られる。この週末の北海道は、6月とは思えないほど暑かった。旭山動物園のある内陸部の気温は30度を超えた。
コンクリートで底を固められた川が痛々しかった。専門家は、その必要性について、いろいろと理屈を並べ上げることができるだろうが、北海道の川にあんなものが必要であるはずがない。私は鳩山由紀夫と違って、彼ら専門家からは学ぶことは何もない。
今では諸悪の根源のようにいわれている‘少子化’でさえ、1974年当時の専門家たちは、むしろ少子化を促進しようとしていたのだから。

同年に、厚生省の諮問機関である人口問題審議会は、人口白書で出生抑制に努力することを主張しています。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100215/212778/?P=1

それはともかくとして、今回は‘6月の北海道'に釣られて参加してしまった社員旅行だが、あの宴会というものに参加して、これは、今後、間違いなく消えゆく文化であろうことを実感した。
私は、宴会なんて何が楽しいのかまったく分からない。
しかし、一方で、これがどうして広く行われてきたかはとてもよく分かった。
これは、集団への帰属意識の確認行為なのである。
長い長い高度経済成長のもと、日本人は、集団の自己保存本能に個人を埋没させることを求められてきた。そして、そのことに法悦さえ見出してきた。呑みたくもない酒を呑み、歌いたくもない歌を歌うことが楽しいとすれば、そのヒエラルキーに連なっている喜びなのだろう。
思い出してしまうのは、最近、卒業生が企業からひっぱりだこの国際教養大学の学長、中嶋嶺雄が、
「バブル期までの企業は、学生が大学で学んだことなど見向きもせず、就職後、‘オン・ザ・ジョブ・トレーニング’で、自分たちで再教育していた。
しかし、そのやり方では、群れの中の競争に強いだけの‘エコノミックアニマル’しか育たない。
だから今、企業は、今こそほんとの深い教養をもっている人材を育ててほしいと大学に切望している」
と、村上龍と語っていたことだ。
宴会を楽しむ人たちに教養がないと言うつもりはないし(遠からずという気もするが)、そのなかに、現に、優秀な人たちがいっぱいいるのも同僚として知っているが、それでも、こういう宴会が集団主義の発想からしか生まれないことは否定できない。
たとえば、酒について言えば、いまどきそんなことを言う人もいないだろうが、‘オレの酒がのめねぇのか’的な酒は、どんなた駄酒でもいいはずで、吉田健一が「金沢」でやっているような酒のたしなみ方とはまるでちがう。
つまり、そこには酒の差ではなくて、教養の差がある。言い換えれば、酒の味を分かることこそが教養なのである。
今、「へうげもの」なんかが受けている心理の底には、そういうことがあるのかもしれない。茶をたしなむことができるかどうかも、武将たちにとって真剣勝負だった。たかが茶の湯に美が宿るとすれば、個人としての存在価値がそこにかかっていたからこそだろう。
集団に飲まされる酒はまずく、集団に歌わされているカラオケはいたたまれない。そこには膨張していくことが自己目的化された集団への、グロテスクで無自覚な従属しかない。