ジャック・ラカンは、人間の知性の働きを‘夜の海を進む航海士’に喩えた。
とは、内田樹の「下流志向」から孫引き。
夜の海上に、航海士が何かわからないものを見つけたとしても、知性の働きは、その‘わからない’状態を保持することができる。
広大な海を進む航海士は、幾夜の経験を繰り返して、かつて自分が目にしたものを理解するかもしれない。
内田樹がジャック・ラカンを想起したのは、自分が担当している大学生が「無純」という漢字書いてきたときだった。

ここで僕は考え込んでしまいました。「どうしてこの大学生は、これまで二十年間の間、『矛盾』という漢字を読まずに済ませてきたのか?」ということです。

わからないものをわからない状態で抱えて、それを噛み砕いて理解していくのが知性なのに、「矛盾」を「無純」と書く学生の誤字のありようを見ていると、

「わからないもの」を「わからないまま」に維持して、それによって知性を活性化するという人間的な機能が低下しているのではないかいう印象を受けます。

何かが分からないというストレスににふたつの対処法がある。ひとつは、それをわかるように努力すること、もうひとつは、ライオンに見つかったガチョウのように、土の中に頭を突っ込むことだ。

 弱い動物はショックを受けると仮死状態になります。そのように心身の感度を下げることで、外界からのストレスをやり過ごすというのは生存戦略としては「あり」なんです。
おそらく現代の若者たちも「鈍感になるという戦略」を無意識に採用しているのでしょう。
(略)
 それは、彼らは「自分の知らないこと」は「存在しないこと」にしているということです。

無知とは、ものを知らないことではなく、知らないことから目を背けていることだ。
広大な未知の領域に敬虔であることは、知性の自己証明なのかもしれない。
以前このブログで、ゆとり教育について書いたときに、このことが世代差別のようになっていくのは不毛だと書いたが、知性の欠如は、なにも‘ゆとり世代’に限ったことではない。伝統的な表現を使えば、‘spoiled’と呼ばれてきた一群の人々である。
下流志向』が書かれたのは2002年だったので、内田樹の文章は、かの「踏襲」を「ふしゅう」と読んだ‘宰相の孫’をあてこすったわけではない。
あえていうなら、その登場を予言したというべきだろう。
麻生太郎中川昭一鳩山邦夫、今考えてみれば、麻生内閣自民党きっての‘spoiled kid’集団だった。
今さら、麻生太郎について書くのは、日経web刊に「この20年―長期停滞から何を学ぶ」として、面白い記事がいくつか載っていたからだ。
福井俊彦日銀総裁はインタビューにこう答えている。

 世界全体の潮流変化が始まったときに、日本は戦後の成功物語の頂点を極めようとしていた。中国の改革・開放からベルリンの壁崩壊、その後の今日にいたるグローバリゼーションへの潮流変化に即応して各国は改革を競ったが、日本は自らをどう改革するか、容易にそういう考え方に到達しなかった。
(略)
 高度成長慣れもあって、そう遠からず景気は回復するのではないかとの空気からぬけ出せず、不良債権処理に伴う苦痛を背負うよりは、ともすれば先延ばし策が取られがちだった。

いまだに、小泉純一郎より昔にもどればすべてうまくいくと考えている人(小泉前派?)がどれくらいいるかわからないが、すくなくとも、国民の大多数はそうは思っていない。それは、一連の選挙結果から明きらかだろう。
民主党は、政権交代というけれど、ようするに、麻生太郎が負けただけだ。
麻生政権をたとえて言えば、ようやく危機を脱して、軌道に乗り始めた老舗企業に、先代の孫が乗り込んできて、あれよあれよという間もなく、ぶち壊しにしてしまったようなものだ。
政権交代選挙の直後、佐藤優
「勝ったのは小泉さんだ」
といっていたのが思い出される。
あれはどういう意味だったのか。私は皮肉だと思っていたのだけれど、今となっては、二重の意味で皮肉に聞こえる。
小泉純一郎は「自民党をぶっつぶす」といった。
彼一流の逆説を翻訳すれば、それは、「改革政党に脱皮できなければ自民党はつぶれる」ということだったはずだ。
そして、自民党はつぶれれた。
民主党の政治家たちは、政権交代の主役は自分たちだと思っていただろう。しかし、実はそうではなかった。この一年、私たち国民は、いわゆる小泉劇場の最後のスピンオフ企画、しかも、かなりできの悪いパロディーに付き合わされただけだったと思い知らされることになった。
また、こういう記事も目にした。

 グローバル化が進む現在、ヒト、カネ、モノは国そのものというよりも、むしろ「実力のある都市」をめがけて流れ込んでくる。世界経済を国単位で比較分析することは、もはや必ずしも有効ではなくなった。

大阪府知事東京都知事、宮崎県知事、沖縄県知事、神奈川県知事、富山市長、など、いまはむしろ、地方自治体の首長のほうが民意の信頼が厚い。
もしかしたら、国際的にはもうすでに、TOKYOの存在のほうが、JAPANの存在より大きいのかもしれない。