カポディモンテ美術館展 バロックと性の抑圧

国立西洋美術館でカポディモンテ美術館展。
ナポリにある美術館で、16世紀にファルネーゼ家が蒐集した美術品が所蔵品の中心となっている。
展示されている多くの絵が描かれたのは、ルターの宗教改革に対して、カトリックの内部からも教会の古い体質を改めていこうとする、いわゆる対抗宗教改革のころだ。
当時、これらの絵は、教会や貴族の館を飾ったものであろうから、宗教をテーマに扱ったものが多いのだけれど、すくなくとも、キリスト教はまったく対象化してみることのできる私としては、特にバロックの絵画には、むしろ強い抑圧を感じる。
‘聖アガタ’という聖女をご存知だろうか。
私は、この展覧会で初めて知った。
生涯純潔を通す誓いをたてて、時の権力者の求婚を拒否したために、売笑窟に売られた。だが、そこでも客との交渉を拒んだために、みせしめに乳房を切り取られた。
この聖女の絵が二点あった。ひとつは、まさに乳房を切り取られようとしているところ、もうひとつは、胸乳から溢れる血を白い布で抑えているところ。
また、ユディトとホロフェルネスを描いた絵も二点。
包囲した敵陣の大将ホロフェルネスの寝首をかいて、町をすくった旧約聖書の未亡人がユディトである。
一点は、まさにホロフェルネスの首すじにナイフをつきたてたユディト、もう一点は、首のないホロフェルネスが横たわるベッドに腰掛けて、夜があける窓を見ているユディト。
ずっと後に、マネの‘オランピア’や‘草上の昼食’が普通の女が普通にハダカでいることで、大変な衝撃を与えた背景に、たかが女の裸を描くのに、女神だの聖女だのをひっぱりだすうんざりするような欺瞞があったことはたしかだろうけれど、このルネッサンスバロックのころまで遡ってしまうと、そこに感じるのは、欺瞞というより、むしろ抑圧だ。
当時の男女は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの、改悛するマグダラのマリアの涙に、ひそやかなときめきを覚えなかったものだろうか。
今回のポスターにも使われているパルミジャーノの<貴婦人の肖像>、長らく‘アンテア’の名で愛されてきたこの無名の貴婦人、白い胸元が深く切れ込んだ豪華な衣裳に、貂の毛皮の襟巻きを肩にかけ、真珠とルビーで髪を飾り、鎖に軽く指を遊ばせるこの毅然とした美貌の女性が、一方で高級娼婦ではないかと言われてきたこともなんとなくうなずける。
宗教の抑圧から逃れて、自身の美貌に毅然としていられるのは、娼婦でしかありえなかったかもしれないからである。

ちなみにユディトがホロフェルネスの首にナイフを突き立てている鬼気迫る絵を描いた画家は、アルテミジア・ジェンティレスキという女性で、この絵を描く直前に同業の先輩男性にレイプされたといわれている。
マネのころには、すっかり形骸化されてしまっていただろうが、性的なことが、文字どおり‘秘めごと’であった時代には、神話や伝説が、セックスの暗喩として、今考えるよりずっと切実であったのだろうと思う。